ツチキ(同伴者)と見た考えかたである。併行して流れるものとして考えられた。今日、日本の文学が、日本の民主主義の現実と、その特徴に立つ独自の機能を会得されようとしているとき、同伴者作家というもののありようは自然別様になるのだろう。並んで流れつつ、それは別な河、という存在ではなくて、澎湃《ほうはい》たる日本の新民主主義文学のゆたかにひろい幅と、雄大なその延長とのうちにとけ入り、包括されるはずのものと思う。伸びる芽には必ずきっさきがある。動く車に軸がある。歴史の前進の主軸が、現世紀においては勤労階級であり、したがって、きょうの努力は来るべきプロレタリア文化・文学への展開であることを不自然とすることもいらないのである。新しい民主主義の理解は、文化と文学におけるいらざるセクショナリズムからわたしたちを自由にするであろう。日本のすべての条理ある精神は、反民主的なあらゆることについては、どこまでも闘おうと決心した。反民主的な文学とその作家たちとは、夜も昼も強固な敵をもたねばなるまい。そういう人々にとっては、芸術そのものが立って刃向ってゆくだろう。芸術、そして文学は、そもそもの本質が、人生を愛し、評価し、人一人の生命と創造力の大なる開花を歴史のうちに期待するものなのだから。

        世界観について

 文学作品の批評が、ごく素朴な、自然発生的な主観の印象に立って行われていた時代から、「作者の眼」という表現が存在した。作者の眼がゆきとどいているとか、あるいは、作者の眼光はいまだそこに達しないのである、とかいうふうに。文学のそとの世界でも、東洋人は「眼」という字を意味ふかく扱ってきている。眼光紙背に徹すとか、心眼とか。あなたの眼力には恐れいったと叩頭《こうとう》するとき、人は、嘘もからくりも見とおしだ、という事実を承認したわけになる。
 プロレタリア文学の理論は、いくつかの点で、文学とその文学の発生する基盤としての社会とのさまざまの関係を明らかにした。社会科学の到達点にたって客観的に明らかに証明しようとした。文学的直観の表現ではなく、かん[#「かん」に傍点]でわかる表現でなく、文学のそとのあらゆる市民に、社会現象の一つとして、人間の創造的な作業の一つの発露として、文学現象をわからせるための努力をした。
 そのことでは、うちけすことのできない貢献をしている。文学は、少くとも文学
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