題に当面しているのである。日本の社会がその半封建性とたたかう必然は、もう今日では万人の目にはっきり見えてきている。文学の領域でもそれは当然明瞭なわけなのだが、十数年前にプロレタリア文学としての運動があったから、今日民主主義の文学というと、後退したような感じを与える。文学の前線が時によって出たり引っこんだりしているようにも思われる。しかし、それはけっしてそうではない。日本のわたしたちは、今こそ、よかれあしかれ日本の社会機構の現実の基盤とぴったり結合した文化・文学の理論をもって、発展的に動きだせる時に来ている。社会科学、政治的活動、労働運動の全線が、今日は日本のいつの時代にあったよりも正常な関係をもって市民生活の中に立ちあらわれてきている。したがって、文学も文学の自主的な足場とともに、民主国としての日本の後進性をいまや十分自覚する能力を与えられ、その自覚に立って、はじめてとっくりと十数年来のことのなりゆきをふりかえり眺めわたせる時期になった。
新しい理解での民主主義文学運動のうちに包括されて、その最も推進的部分をなすのが、プロレタリア文学である。半封建的なものとのたたかいが、日本においてどんなに重大であり複雑であるかということは、こんどの憲法一つを見てもわかる。民法が改正されただけで生活感情の伝統の相剋はなくなると思うものはない。日本の財閥が外見上解体されたとして、どうして徒弟制が絶滅したといえよう。バイブルに、男女は差別ある賃銀を、と書いてはなかろうが、カソリック教徒である日本の文相は、それらを教員たちとの係争点にしている。あらゆる市民が半封建的なものからの離脱を努力しているとき、文学もブルジョア民主主義的立場からの面をもたないわけにはゆかない。人間性の確保、個性の確立は、ここに根をおいて文学の上に主張されうる。けれども、後進の日本は、民法のブルジョア民法としての改訂さえやっと一九四六年に行う状態である。福沢諭吉が提案した明治年代の日本における資本主義興隆期にはそれを行わず、半封建憲法・民法で押してきた。その結果、わたしたちの日常生活のあらゆる面と感情とが、古きものへのたたかいと同じ刹那に、帝国主義末期の現象であるさまざまの矛盾と衝突し、そこからの出口として、より進んだ民主主義――社会主義的民主主義を見わたさずにはいられなくなってきている。日本の民主主義が、ブルジョ
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