あって、日本文学の発展の歴史において明瞭に後退と反動とを示しているものなのである。科学の分野で、統制の問題が論議されはじめたのとほぼ時を等しくしている。この時、木々高太郎氏の理性と現実の乖離を強調した作品が生れたのは単なる偶然であろうか。

        現実は批判する

 志賀直哉氏の昔の小説に「范の犯罪」という題の作品がある。これは范という支那の剣つかいの芸人が、過って妻を芸の間で殺し、過失と判定されるのであるが、妻を嫉妬し、憎悪が内心に潜んでいた自覚から、法律の域外の人間的苦悩を感じる主題であったと思う。志賀氏の作品と探偵小説とを同日に論ずべきでないが、しかし、日本のインテリゲンツィアの思想史、生きる態度、人間性の質量と方向の推移とをこの二つの作品によって調べることは可能である。
 志賀氏の場合、范の理性は、法律上の物的証拠よりより深い人間的心理の現実、その真実に向って働いている。木々高太郎氏の主人公は、理性にたよる[#「理性にたよる」に傍点]ものだから、つい本当でもないことを本当だと承認することになる。この場合、理性、或は知性は喪失したものとしてしか実際に現れていないのである
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