非恒常性」のなかで、著者はこの問題において、志賀直哉氏の言葉と横光利一氏の言葉を何と適切に対比して、批評していることだろう。
志賀直哉氏は「テーマがあってもモチーフが自分の中に起ってくれなけりゃ書けない」という態度である。横光利一氏はそれに対してこう云っている。「いつも文学を文壇の習慣と結びつけなければ棲息出来ぬ因循さが、自然主義以来牢固として脱けず、テーマがあってもモチーフがなければ仕事は出来ぬという完成にまで達するに到った。」そして横光氏は、彼によって何ものかである如く示される自意識の整理の要としてモチーフを見ている。「作家の世界像という観念構成に関する希いは、この意識の整理の必要から生じて来たのである。これを云いかえると、近来の作家にとっては、あらゆるテーマというものは、整理の必要というモチーフから起ると言うべきである。」
だが、モチーフとは、横光氏が云うようなそのようなものなのだろうか? 文壇の習慣と結びついた、というようなものとして、作品のモチーフが感じられるというようなことは、私たちにとっては愕きであると思う。『現代文学論』の著者が、横光氏の「意識の整理の必要」という限
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