にうたれ、洗われ、文学の問題としてそもそも芸術一般というような概念に立つ判断が、現実を正しく把握し得るものであるかどうかを十分明らかにしきらないうち、社会生活と文学とは近代文学の本質であった自我を喪失し、商業主義と政論とが混交した読者としての大衆の課題をおこし、それも身にしみてはつきつめられぬままに、純文学の通俗化を伴いつつ長篇流行が生じ、やがて今日は又短篇の愛着が見られている。大人の文学。行動主義。ヒューマニズム。報告文学。生産文学。何と夥しい呼び名がこの間に響いたことだろう。これらの声々は、ある点から見ればまことに悲痛な、今日の日本の文学における生ける人間の存在の消失に伴うつむじ風の唸りであり、作家と歴史とのめぐり合わせにおいてみれば「個人生活における一貫性」が砕けゆく過程の叫びであった。
『現代文学論』の第一篇、第三篇、第四篇、第五篇、第六篇は、次々に推移したそのような生活と文学との相貌を、具体的な個々の文学現象にふれて、文学的要因から闡明している。
時間の上からは第一篇についで書かれた第二篇は、それらの諸問題と必然なつながりをもっていると云うばかりでなく、この評論集全巻の核心をなす重要な部分ではあるまいかと考える。日本の文芸批評は、十年ほど前に鑑賞批評、印象批評から発展して、漸々《ようよう》社会的文学的にある客観的な意義をもった評価を試る段階にまで達した。その推進の役割を演じたものとしてプロレタリア文学の努力は、単にその文学のためのみならず日本の文学全体としての成育のために、いつの時代になっても無視することの出来ない意味をもっている。しかしながら、この文学作品評価の基準の問題は、夥しい論議と自身の未成熟のうちに端初的な数歩を踏みだしたばかりで、以来、文学原理の課題として正当な発展はさせられないでいた。この文学評論の著者は、第二篇の「内容と形式の問題」「文学史と批評の方法」とで、主としてこの極めて大切であって同時にいろいろの偏見にとりかこまれがちな文学の価値の問題を明らかにしようとしているのである。蔵原惟人の芸術論のなかではまだ筆者自身にとって曖昧にしかとらえられていなかった芸術性というものをも、文学原理として、ここで初めてはっきり会得出来るものとして解明されている。「文学史と批評の方法」で、著者は過去の理解が、現実の歴史との関係で文学史を静的なものとし、批
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