も自分で歪みの見えない主観のなかに立てこもることで、即ち評論から随想へ転落する方便に求めていず、刻々の生きた動を執拗に文学の原理的な問題に引きよせて理論的に追究しようと努力しているというのも、つまりは批評というものがそれとして、批評家の意識や能力にかかわらず指導性をもつものであるという、その現実に向っての忠実さによるものなのだと思われる。
 もし『現代文学論』に何かの物足りなさを感じる読者があるとすれば、その理由の一つには、昨今、評論と随想との区別がごちゃごちゃになって多くの評論家は現実評価のよりどころを失ったとともに自分の身ぶり、スタイル、ものの云いまわしというようなところで読者をとらえてゆく術に長けて来ているため、読者の感覚が、現実と論理の奇術は行わない本筋の評論の骨格になじみにくくされていることがあげられるのではなかろうか。
 更に本筋の評論として、まだもっと何かをと求めるものが読者の心にあるとすれば、それは、この著者がこれまではどこやらいつも自分の照れ臭さを克服しきれないで、一気に自分の主題を歩きぬけて来ている、その力まけのようなものから生じている線の細さというようなものでもあろうか。しかし、これは、評論家としてのこの著者の内にある、よいものが頂点まで育ち切っていないと云うことで、正当な成育を阻む性質のものがあるという意味ではないと思う。
 多くの作家たちにも恐らくこの評論集は読まれたことだろう。それらの人々の心にどんな感想が湧いただろう。それが知りたいように思う。
 この評論集には昭和九年ごろから今日までの文芸評論が収められていて、とりあげられている文学上の問題のいくつかについては、私も感想をかいたりして来た。作家の感想の範囲であるにしろ、評論に近いようなものも書く一人の読者に、この評論集が、その人間の評論的要素を刺戟しないで、作家としての心にある温い動きを与えるというところは、重ね重ねこの本の面白いところだと思う。それだけ、この『現代文学論』一冊は、評論としての正統な理論的追究と同時に、文学の芸術的因子にこまかくふれた論考であるということが云えるのだと思う。
 この十年の間に、日本の文学は実に激しい風浪にさらされた。社会の屋台骨ごと揉まれている。著者が云っているとおり、「芸術一般という概念ぐらい私たちをつよく支配しているものはない」にかかわらず、急激な濤
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