評を動的なものとして区別をもったまま止っていた誤りを訂して、両者の職能を密接な関連のもとに統一することをこそ、批評の本質が批評家に求めているものとしてみている。こういうものとして見ると、第二篇は、文学の原理的な問題にふれつつ、それを明かにすることによって、おのずから批評家として著者自身に向けられるべき任務の性質もひき出されて来ていることがわかる。実際に著者は、この第二篇で追究した諸点を文芸評論家としての自身の評価のよりどころ、評価の方法として、他の諸篇にふくまれた労作をなしとげている。文芸思潮史としてこの一巻をまとめることを念願したとあとがきに書かれているが、批評及び文芸思潮史の方法として、ここに示されている数歩は、日々があわただしくて人々の視線も上ずっているような今日の世相のなかで、決して瞠目的な形ではあり得まいが、しかし、文学の問題としては本質的な成長の数歩であることを、深く感じるのである。
 この著者が、どこまでもどこまでも文学は生きている人間を描くものとして、つかんでいるその勘どころを飽くまで手離さずに、理論上の歩み出しもしているところが、しんから気持よく思われる。原理的な芸術性の問題にしろ、結論の流れいずる源をさぐれば、そこには現実に生きた人間の芸術における関係があらわれる。「文学の虚構の真実」にしろ、「芸術至上主義の現代的悲劇」にしろ、「現代の創作方法論」にしろ、いずれもそれが云える。
 文学において、創作の方法というものは、何とまざまざとその作家の社会的で芸術的な生きかた全幅を示すものであろうかということも、興味ふかく考えさせられる。例えば今日云われている農民文学というものの在りようについて、又、読者としてあらわれている大衆と作家との互のかかわり合いかたの真実の姿について、著者は、創作の方法という、全く文学独特の因子からつきつめて行っている。
 作家としての心が、このような語りかけに対して迚《とて》も知らんふりはしていられないように触れられるというのも、この著者がどこまでも文学の独自なものから云っているためであると思われる。
 何かを求めながら、しかもこれぞという自分の選択も定まらないままに今日いろんな小説を片はじから読んでいる読者層は、この一冊の本からどんなに多くのものを与えられるだろう。文学作品を文学の作品として理解してゆくたすけとなるばかりでなく
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