作家と時代意識
宮本百合子

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(例)[#地付き]〔一九四〇年九月〕
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 作家が時代をどう感じ、どう意識してゆくかということは、文学の現実としてきわめて複雑なことだと思う。
 たとえば、藤村が「破戒」を書いた前後の事情を考えても、作家と時代の見かたというものは決して単純な関係でないことを考えさせられる。三十三歳だった藤村が最初の長篇小説「破戒」をかきはじめたのは明治三十七年で、年譜をみると、「日露戦争に際会した。当時の出版界と著作者との関係に安じられないものがあって、自費出版を思い立ったのもこの年であった」とかかれている。『戦争文学』という雑誌が発刊されたり、小波の「軍国女気質」泉鏡花「満洲道成寺」という珍妙な小説が出たり、そういう世間の空気のなかで、出版界は、藤村の書く地味な小説などに興味を抱かない時代だというのが、藤村のその時代への感覚の一面であったのだろうと思う。
 さりとて漱石のように「吾輩は猫である」の諧謔諷刺や「倫敦塔」の幻想のなかへ身を置こうともしないで、やはりこつこつと「破戒」を書きつづけて行った藤村の心の底には、そのような野暮を敢てする芸術家としての時代への意識があったわけで、その意識は、創作の現実としては作品のテーマとその表現方法への確信として自覚されていたのだと思われる。時代に対する作家の意識は、世相への投合としてあらわれるよりも、常に、世相のよって来る時代の性格に対して示される作家の文学的な態度としてあらわれるのは意味ふかいところだと思う。
 世相的、風俗的作品として、あれこれの小説が時代のただの反射として書かれていたとき、藤村は水面の波としてあらわれるそれ等の現象の底まで身を沈めて、日本のその時代を一貫する流のなかにあった寒流・暖流の交錯の悲劇にまでふれようと試みたのであったと考えられる。時代への意識というものが少くとも文学との関係でとりあげられる限りは、刻下の題材を書くか書かぬかという現象のもう一歩奥に歩み入って、それが何故どのように書かれたか、或は書かれなかったかという点にまで迫って観察し、考えられなければならないものだろう。
 だから、藤村の「破戒」の場合にしろ、当時における日本の作家の時代意識について理解しようとすれば、一方に、ごく
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