世相的反応で製作したたとえば江見水蔭のような作家たちが、その描く対象をどう見てどう感じていたかということをも見逃し得ない。現象に対する作家たちの解釈は、それら一定の解釈の生れた根のところにその人たちの時代への意識のありようがみられなければならないからである。
現代の作家は、そういう意味で、どんな風に時代を意識しているだろう。日本は今世界史的な規模で変りつつあるのだから世相的刺戟はもとより敏感に感じざるを得ない状態におかれていて、しかも時代の永い見とおしに立って文学態度の歴史的な把握は非常な困難におかれているのが、今日の実際ではなかろうか。
作家が現実の激浪に圧倒されて、或る混乱に陥ったと云われているのは既にこの数年来のことである。その原因は決して簡単でないが、主な一つは、文学の前時代の骨格であった個人的な自我が、内外の事情から崩壊したのに、正常な展開の可能が自他の条件にかけていて、文学によりひろい歴史性をもたらす次の成長へ順調にのびられず、自身の存在の確信のよりどころを失っているような状態であることをさして、作家と文学の敗北、沈滞が云われていると思う。そして、同じ原因から、近頃あちこちでリアリズム否定の論が生じていることは注目に価する。
この間『都新聞』に青野季吉氏がかかれた文章に、今のような時に文学の仕事なんかしていていいのかという不安をおぼえるということ、また、自分のような人間はせめて文学の仕事でもしているほかないとも思うということがかかれていて、もう文学はリアリズムの時代を去った、ロマンティックな文学のいる時代が来ている、と云われていた。
文学は脱世的なものであり得ないのだし、人生と歴史とにとって決して余技的なものではないのだから、青野氏の文章の前半は、現代日本の文学精神が、どこやらにまだ二葉亭四迷の時代の文化的業績評価の尾を引いているようで、今日に云われる一つの感想として、この自己否定、或は謙遜には、やはり私たちの心にのこされる何かの異議がある。
今日文学が作者の念願しているだけ十分にリアリスティックであり得ないという実際の事情は普遍的だから、誰しも身にひき添えて肯けるのであるけれども、それを理由にいきなりロマンティックな文学時代の招来へ飛躍されるのは、文学の問題としてみると、やはりくい下りの足りないという気がする。十分リアリスティックであり得な
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