素地の未熟さを逆に反映してのこけおどしの教養ぶりも出現した。その意味では、この時期における教養尊重の風は、漱石時代より萎靡したものであったと云い得るのである。
幾変転を経て、今日、私たち作家は自身の問題として、教養というものをどう見ているであろうか。これは興味のあることだと思う。文学的教養はこの二三年来実に急速に、容赦なく低下しつつあって、而も、その低下の現代の特質は、作家自身その低下をちっとも恐怖していないように見えるところにある。もし、現実の多岐な発現が、過去の文学的教養の枠を溢れているので、そんなものは今日の作家にとって無意味であるというならば、では、それに代る他の教養、真に現実を把握し、現実の変転の真の歴史的契機にふれ得るだけの科学的な教養、政治的な教養を身につけているであろうか。この問いに対して作家の答えはたやすくは与えられまいと思う。作品として表現し得るか得ないかという外的な条件の限度を、作家として本質的な現実把握力としてこの教養の限度と自分からきめて、そこで馴れ合っているということは見られないだろうか。
歴史の或る時期に文化は本質に停頓しつつ、文学の購買力は高騰するこ
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング