とがある。作家は、後者と自分の書く腕とを現象的に結びつけて、それを文学的な創作として自分にも云いきかせている危険はどこにもないと云えるだろうか。
今日の私たちにとっては、最も厳粛な意味で、人間の教養とは如何なるものであろうかということが再び考えられなければならないと思う。そして、この場合教養と呼ばれるのは、今日ひととおり教養があるとか知性的だとか云われる文学作品の真の生活的・文学的価値を、再評価してゆく生活的・社会的洞察であり、文学的教養と云う意味は、或る作家の作品中の文句を会話の中に自由にとりいれて来ることではなくて、それらの文句の真の生命を嗅ぎわけてゆく生活力としての文学への敏感性であると思う。
ホーマーの詩の百千の句を知っていることのよろこびより、自身の世代の真の歌を、何かの形でうたいうる名のない一人の作家であることのよろこびは、何と謙遜でしかも激しいであろうか。作家は、文化として一般の教養の低いことを怪しまない時代にめぐり合えば、そのことに対する本然な疑問から先ず彼の作家的成長の一歩が始まるとさえ云い得るのだと思う。[#地付き]〔一九四〇年五月〕
底本:「宮本百合子全
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング