買って読まされていたものから、自分たちの生活から生み得るものという理解に立ち到らせたこと、及び過去の所謂教養というものを身につけていないことが直接の恥辱ではなくて、自分たちの人生における現実の関係が自分たちに与えている判断を土台として新しい文化と教養とに成長し得るという見とおしを与えたことである。
日本の文学の歴史のなかで、この重要な時期は時間的に極めて短かかった。そこには又、自然主義が日本とフランスではちがった花を咲かせたと同じような日本の独特な社会の事情があったわけであるが、とにかく、数年を経て再び作家と教養の課題が立ちあらわれた時には、この教養の実質が過去への屈伏を意味したとともに、その必要を云々する作家の人生的迫力も、到って甲斐甲斐しさを喪失したものであったことは、注目されるべきところであろうと思う。
僅か数年ではあったとしても、過去の云うところの教養を身につけていない新鮮さを寧ろ文学の世代としてのよりどころとして発足しようとしていた若い作家たちにとって、退陣の形としてあらわれた過去の教養の尊重の流行は、多くの混迷をわきおこした。そして、現実の文壇処世としては、一般の教養的素地の未熟さを逆に反映してのこけおどしの教養ぶりも出現した。その意味では、この時期における教養尊重の風は、漱石時代より萎靡したものであったと云い得るのである。
幾変転を経て、今日、私たち作家は自身の問題として、教養というものをどう見ているであろうか。これは興味のあることだと思う。文学的教養はこの二三年来実に急速に、容赦なく低下しつつあって、而も、その低下の現代の特質は、作家自身その低下をちっとも恐怖していないように見えるところにある。もし、現実の多岐な発現が、過去の文学的教養の枠を溢れているので、そんなものは今日の作家にとって無意味であるというならば、では、それに代る他の教養、真に現実を把握し、現実の変転の真の歴史的契機にふれ得るだけの科学的な教養、政治的な教養を身につけているであろうか。この問いに対して作家の答えはたやすくは与えられまいと思う。作品として表現し得るか得ないかという外的な条件の限度を、作家として本質的な現実把握力としてこの教養の限度と自分からきめて、そこで馴れ合っているということは見られないだろうか。
歴史の或る時期に文化は本質に停頓しつつ、文学の購買力は高騰するこ
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