とがある。作家は、後者と自分の書く腕とを現象的に結びつけて、それを文学的な創作として自分にも云いきかせている危険はどこにもないと云えるだろうか。
 今日の私たちにとっては、最も厳粛な意味で、人間の教養とは如何なるものであろうかということが再び考えられなければならないと思う。そして、この場合教養と呼ばれるのは、今日ひととおり教養があるとか知性的だとか云われる文学作品の真の生活的・文学的価値を、再評価してゆく生活的・社会的洞察であり、文学的教養と云う意味は、或る作家の作品中の文句を会話の中に自由にとりいれて来ることではなくて、それらの文句の真の生命を嗅ぎわけてゆく生活力としての文学への敏感性であると思う。
 ホーマーの詩の百千の句を知っていることのよろこびより、自身の世代の真の歌を、何かの形でうたいうる名のない一人の作家であることのよろこびは、何と謙遜でしかも激しいであろうか。作家は、文化として一般の教養の低いことを怪しまない時代にめぐり合えば、そのことに対する本然な疑問から先ず彼の作家的成長の一歩が始まるとさえ云い得るのだと思う。[#地付き]〔一九四〇年五月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸情報」第六巻
   1940(昭和15)年5月下旬号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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