とりあげ得ないでいる。日本における夫婦間の相剋は、少くとも漱石の作品の世界では、ストリンドベリーの文学の世界のそれとは、その発生の社会性に於てちがっている。そのちがいが現実に作用しているだけ深刻巨大なちがいとしては抉り出されていない。漱石の教養の歴史性の片影は、こういう点にも見られるのである。
鴎外は漱石とまたちがい、この文学者のドイツ・ロマン派の教養や医者としての教養や、政府の大官としての処世上の教養やらは、漱石より一層彼の人間性率直さを被うた。彼が最後の時期まで博物館長として、上流的高官生活を送ったことは、彼に語らせればゲーテ的包括力であったかもしれないが、歴史の鏡には、やはり文学者としては伝記の研究に赴かざるを得なかった必然として映し出されるのである。
漱石の系統に立って、教養を自分の芸術の砦としようと試みつつ、遂に時代の大きい動揺によってその砦を壊されつつ己はその崩れた石の下となったのが、芥川龍之介であったと思われる。
この時期を一区画として、文学における教養の問題は、日本文学の中で未曾有の一飛躍を示した。従来は、教養というものに対する作家の態度が、二別二様に分れていたと考えられる。一方には、小説は学問や教養で書くのではない、という、創作における教養の役割を否定的に見た人々があり、その大づかみな分けかたの中には自然主義から発足した作家たちも、白樺のように人間性《ヒューマニティ》にじかに立って自分の声を生《き》のままで育てようと努めていた人々も入ったと云える。他の一方には、漱石からはじまって芥川龍之介などのように、俗人的教養を否定する武器としての文学的教養を高く評価した一群の人々があった。これら二様の態度は、教養に対しては二つの端に立ちつつも、世俗的な常識に対して戦う態度は相通じたものをもっており、同時に、反撥し或は評価する自身の態度とともに、対象となる既定の文化・文学的教養そのものの歴史的な本質については深い省察を加えないところも、共通であった。
芥川の死の前後、昭和初頭前後から、日本の文学は、その流れの中に、昔ながらの一つ流れから只|岐《わか》れたというばかりの相違ではない相異を質的に主張したプロレタリア文学が強い潮騒いをもって動きはじめた。
この文学運動が日本文学にもたらした消えざる功績は、文学作品の社会性についての見解と、文学を大衆にとって、
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