どうかという懐疑に陥れている。このことも、私たちに少なからず暗示するところがあると思う。
 硯友社の文学的傾向に対して、作家は昔の戯作者に非ずとして、人生的な教養の必要を強調したのは、当時の内田魯庵その他|所謂《いわゆる》人生派の論客たちであった。
 自然主義文学の動きは、硯友社的美文で造り上げられた現実を文学から追放して、もっとむき出しの、教養以前或は七重の教養を八重に引剥いだその底の人間性と真正面から取組もうとした、一応の教養を否定する教養に立っておこったわけであった。
 ところが、日本の近代文学の血脈は、自然主義を生んだフランスの思想と文学の伝統とはまるきりちがっていて、フランスの有識人が代々を経て来た啓蒙時代、唯物論時代を経ていない。同じ自然主義の流れも、日本の生活の現実の土壤をうるおして結んだ実は、既成の教養を否定するに足る新たな文化力としての鋭き現実的な教養ではなかった。日本の市民一般のおかれていた教養の低い水準のままに作家の内的世界も肯定された形をとらざるを得なかったと見られる。
 夏目漱石の文学、森鴎外の文学及び、漱石系統の帝大などを出た新しい作家たちの作品が、知識人の間に広く反響をもったのは、一方に自然主義の傾向をもった文学の、桶を桶というに止ったような真実性への反撥であったと思えるのである。
 しかしながら、夏目漱石にしろ森鴎外にしろ、何と日本の明治時代そのものの文化的混淆を大きくその生涯に照りかえしていることだろう。漱石のイギリス文学の教養、支那文学の教養は、二つながら他の追随を許さぬ程度であったらしいが、彼の作品は、決してこの二つの教養の源泉からだけは生れていない。明治元年に生れた日本の男という、その時代が彼にたたきこんだ封建のぬけきらない、儒教の重しがのき切らない一生活人の脈搏が漱石の全作品を貫いて苦しく打っているのが感じられる。男対女の相剋を、漱石は「兄」などの中にあれほど執拗に追究していながら、問題は常に女という一般の性に向っての疑いとして出されていて、結婚の習慣のありよう、家庭という観念の内容については、不思議なほどふれられていない。男女の相剋を自我の相剋として見る面で漱石の西欧的教養は大きい創造のモメントをなしているのであるが、漱石が我ともなく昔ながらの常識に妥協している面では、そのような男女の相剋をもたらす日本的現実の条件の追究を
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