今年のことば
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九四九年一月〕
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 一般に日本の人が、イエスとノーとをはっきり使いわけないということについては、度々、いろいろの人がいろいろの角度から関心を向けて来た。一つのことについて意見を求められたとき、それを肯定してハイそうです、というか、あるいは否定してイイエそうではありません、というかしなければならない場合、日本の、特に婦人は、自分の判断をはっきり言葉にすることを非常にためらう風がある。街頭録音などをきいても、婦人にマイクが向けられると、さあ、という言葉がまずきこえて来ることが少くない。
 そして、こういう現象は、日本の封建的だった社会が、婦人の発言をどう扱って来ていたか、ということの反映であるという見解も、家では婦人自身に理解され、実感としてそこからの解放がねがわれている。
 だけれども、この三年間に日本の歴史が、びっくりするような迅さで前進している、そのテムポにふさわしい迅さで、わたしたちの言葉は、率直にわたしたちの心情を表現し、ときにはつよく主張もする手段となって来ているだろうか。
 この点をつきつめて見ることが、案外大切だとおもう。なぜなら、昨年の春の終りから夏にかけて、日本の内部で第三次大戦への戦争挑発は、実にはげしく行われた。あのころ、また戦争がはじまるんでしょうか、と顔つきをかえ低めた声でその恐怖を示した日本の婦人は決して一人二人ではなかった。手おくれにならないうちにと、東京から疎開荷物を送り出しはじめている人の話もきいた。ところがそれほど婦人に恐怖を与える戦争に対してあのころ、わたしは戦争がいやだ。わたしたちはどんなことがあっても戦争は拒絶する、と発言した婦人たちは、果して幾人あったろう。女同士がより集ったときは、ほんとにいやですわねえ。もうわたしは戦争だけは真平ですわ、といい合う婦人たちも、そのままの言葉を戦争はいやだ。戦争はしない。という社会的な戦争拒避の声とした例はまれであった。戦争はいやですわねえ、といいつつ、そのいやなものが強制されればやむを得ないと、屈伏する前提ででもあるかのように、ひそひそと私語がかわされていた。したがって、社会の心理に及ぼす効果をしらべると、戦争なんて、いやですわねえ、とあ
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