を見た。しかも、理論への情熱は主観的に高揚されて、謂わば各人各様の説を感想として主張し、そのことに於て日本のヒューマニズムの問題のおかれている多難性と、思想の多弁と浮動の激しさとを感じさせた。文化の代表者たちの上に見られたこの現象は、方向を求めつつそれにめぐり会えずにいる広汎な一般人に一層の精神的苦痛、拠りどころなさを与え、根気のつよくない多数の者が、その無価値を知りつつ、半インテリゲンツィア養成の政策的方向におし流されて他力本願的日常に落ちて行ったのであるが、ヒューマニズムの問題の旺盛化につれてつよまった非実力な抽象論化の根本的モメントは、果してどこに潜んでいたのであったろうか。
 日本に文学上の問題として先ずヒューマニズムのことが云われ始めた時、それが「知識階級は飽くまで知識階級として」人類につくすことを主要な点として押し出されたこと、而して、そのおし出しが、現実生活の中に在って既に一つの人間性の非力化へ導く広き門であることを一部の作家が論じたが、その補強的な論の建て直しは当時の気分によって望ましいようには受けいれられなかったことを記述した。その弱い点は、三年後の一九三六年において、社会情勢の推移と共に一層深刻に拡大されて来た。ヒューマニズムを日夜論じる当代日本の職業的知識代表者と、一般の勤労的知識人との間に、その形は極めて捕捉しがたい、だがはっきりと感じられる生活気分の疎隔がヒューマニズムの論をめぐっていつしか生じはじめたのであった。
「知識階級は飽くまで知識階級として」自己の性能を発揮するこそヒューマニズムであるとする論に、議論としては異議を認めなかった小市民知識人の大部分も、実際生活では自分たちのうけた知識人としての教養によって日々一定の時間に出勤し、或は労働し、同僚・上役との接触に揉まれ、技術上の問題、技術上の自己の創意性とそれを阻む諸事情を経験しつつある。かかる知識人の知識人である所以《ゆえん》は、単に技術だけを一定の時間売っている機械ではなくて、重役になる希望はない一サラリーマンとして、かかる現実に即しつつ、そこで何を生甲斐として見出し、自分もまがうかたなき人間の一人であるという尊厳をとり戻して行けるかという煩悶の故にこそ、彼の知識人的存在の面がヒューマニズムの問題へもとりついて行くのである。ところが、ヒューマニズムを紹介した人々は「知識階級」というものを最初に抽象してしまい、益々それは「主観の高揚」や「理論への情熱」という方向へ発展させられて行ってしまっているのであるから、そのように論じ、執筆することそのことが既に職場であり職業である者以外の大多数の人々にとっては、自分たちの間では謂わばヒューマニズム論を論ずるに止り、自分たちの境遇の実際で主観を高揚させ、理論への情熱を高めようとしても、具体的解決のありようなさが一層身にしみて来るという実情である。日常の経済生活の逼迫とそのような精神的よりどころなさとは、落付いて本を読む気持さえも削いで行くかに見えたのである。
 ヒューマニズムの提唱が、その意識的、或は論者の社会的所属によって生じている矛盾の無意識な反映として内包していた誤れる抽象性によって、或る意味で文化の分裂を早める力となったことは、実に再三、再四の反省を促す点であろうと思われる。
 文化一般における上述のような意味深長な亀裂は、翌一九三七年に独特な展開を示すものとなったが、このことは当時文学の面に複雑な角度をもって投影した。純文学の行き詰りが感じられ、私小説からの脱出が望まれているのは前年来のことであるが、その脱出の方法が一癖も二癖もあり、云って見れば、社会悪を背負って尻を捲って居直った姿で小説などに現れて来たのである。
 一方でヒューマニズムが抽象論になっているために、現実の社会悪に面をそむけず、その垢の中に身をころがし、そこから再び立って来てこそ新しい時代の人間性が輝くのである。これこそ時代のモラルであるとし、高見順、石川達三、丹羽文雄の新進諸氏の作品は題も「嗚呼いやなことだ」「豺狼」等と銘し、室生犀星氏が悪党の世界へ想念と趣向の遠足を試みている小説等とともに、痛い歯の根を押して見るような痛痒さの病的な味を、読者に迎えられたのであった。
 石坂洋次郎氏の「麦死なず」という小説が、左翼運動への無理解や自己解剖を巧に作中人物の一人(妻)への誇張された描写にすりかえている等の欠点をもつ作品であるにかかわらず、一応興味をもたれたのも、当時のこのような空気とこの作者の示した不健全性こそが結びつき得たからによったのである。
 これ等の人間的感性と文学の頽廃に安ぜず、同時に、還り得べからざる王朝文学の几帳のかげをも求めない作家たち、深田久彌、山本有三、芹沢光治良等の諸氏は、それぞれ、モラルと真実との再誕を求めて作品にとりくんだが、これらの真面目な人間的・文学的努力も、成果においては作者の健全ならんと欲する意欲だけが感じられ、文学的現実は結論のない、中心がガランとしたものとして現れた。例えば、山本有三氏の労作「真実一路」と数年前に書かれた「女の一生」などとを比べると、この作者の進歩性が陥っている今日のスランプの客観的・主観的な性質が手にとるように感じられる。「真実一路」において作者は、力一杯に今を生きることを人間の真実の姿として描こうとしているのであるが、それも、分に応じてその人の気質なりに生一本に生きるというだけでは、やはり人間行動の社会的な評価にまで迫った現実の文学的追求とはなり得ない。同じ作者が、数年前は当時の社会の潮に励まされて「女の一生」に、少くとも進歩的な人間としての生き方の一つの具体的な道を示し得ていたことを思い合わせ、感想なきを得ないのである。
 又、阿部知二氏は、「いかに生くべきか How to live」の探究において「冬の宿」を書いた。しかし、この作品も探求によって新らしく扉を開かれた人間性の発見には到達せず、探求彷徨の姿で描かれざるを得なかったのであった。
 日本古典文学とその精神への復帰は、最初シェストフ的な「不安の文学」が批判を与えられはじめた頃、能動精神の提唱と前後して、久松潜一氏などにより、朗らかに、おおらかな芸術美の対象として万葉時代の文学表現のことが顧みられた。当時にあっては、芸術美の一典型としての抽象において云われたのであった。が、一九三六年の当時に及んで、日本古典の問題は、芸術における伝統の享受、発展への要求の範囲を脱し、一種教化統制の風潮を著しくして来た。これを無条件に礼讚せざるものは、健全な日本文化人に非ずという強面《こわもて》をもって万葉文学、王朝文学、岡倉天心の業績などが押し出されたのであった。その旗頭としての日本ロマン派の人々の文章の特徴は、全く美文調、詠歎調であって、今日では保守な傾きの国文研究者でさえ一応はそれを行っている文学作品の背景としての歴史的の時代考察、文学の環境の分析等は除外されていることに注目をひかれる。
 明治以来の文学が西欧文学のみをとりいれて古典の伝統をかえり見なかったことへの反省、と云われるのであるけれども、ここには今日一部の人々に云われるように単純な西洋かぶれと観てしまうことの不可能な日本近代社会生活の飛躍の必然が存在していた。明治初頭十年十五年間の社会事情を真面目に観察すれば、日本の開化期文化・文学の複雑な胎生を見逃すことは出来ない。旧時代の文学的伝統は仮名垣魯文その他の戯作者の生きかたに伝え嗣がれており、維新と開化とに対して、江戸っ子であり旧時代の文化の代表である彼等は皮肉且つ反動として現れざるを得なかった。新興文化の先駆としての福沢諭吉の啓蒙的文筆活動、翻訳小説と、魯文の文学とは、近代社会建設に向う意欲とその思想とに於て、役割に於て、本質を異にしたものであった。坪内逍遙の「小説神髄」が日本の近代小説への道を示したことは周知である。文芸理論に於てはヨーロッパの評論、文学評価を学んで封建的善玉悪玉の観念を排し、社会と人間との現実を描くことを慫慂《しょうよう》した逍遙が、「当世書生気質」の描法にはおのずから自身が明治社会成生の過程に生きた青年時代の社会関係の角度を反映して、多分に弁口達者な戯作者風を漂わしているのは、芸術のリアリティーとして実に興味ある実例である。
 近代文学胎生期としての明治初年の文学に交流していた上述の二様の流れは、逍遙の英文学研究の業績、二葉亭四迷の当時にあっては驚くべき心理小説の後をうけて硯友社の活動の裡にも謂わば併流している。前代からの遺産としての戯作者文学の伝統は、今日一部の文学者が云う如く簡単に日本文学から消えてはおらぬ。綿々として、荷風の「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」にまで、はっきりとした作者の文学的意嚮として連って来ているのである。一方、漢文学との融合に立つ日本の伝統的文人気質というものは、硯友社出身で江戸っ子である幸田露伴の今日をいかなる内容に彫り上げているであろうか。鴎外の晩年とその伝記文学とをいかに彩ったか。漱石が彼の最大のリアリズムで「明暗」を書きつづけつつ、その人生の脂っこさ、塵っぽさにやり切れないから、一日に一つは漢詩をつくって息をぬくのであると云って、白鶴に乗じて去るというような境地に逃げたことは、明治大正のヨーロッパ化した文学精神における文人気質の何を語っているであろうか。芥川龍之介を死なせたものは彼の偽りない明徹さと旧市民道徳との大摩擦であり又彼の文学の大きい要素としての文人気質、そのポーズの桎梏であった。
 日本近代文学の発展の中心を二葉亭以来の純文学において眺めわたすとき、そこには日本の社会が近代社会として国際的に一位を占めるために努力して来た量と等しい精神の量において、近代社会の市民としての人間性の自主、我の自覚への努力がされて来ている。経済・政治の専門家が条約改正のために尽瘁し、ちょん髷を剪《き》らせ、廃藩を行った、そのことが文化の面では、長いものには巻かれろ式な戯作文学の伝統と近代精神との入りくんだ摩擦に導いたのである。
 社会的現実の各面に、今日この摩擦がより発展した形に於て高まるとも低まっていないからこそヒューマニズムの声が起ったのである。この時期に、文化・文学の辿って来た歴史の伝統の刻み目の内容を着実に含味しようとせず、空に飛行機を舞わせつつ、文学精神の面においてだけは青丹よし寧楽《なら》の都数千年の過去にたちかえらんとしても、幻を喰って生きていられるだけの余裕に立ってそれを主唱している少数の人々以外には、深き困惑に陥るのである。
 この常識から見れば奇妙な偏りをもった古典文学謳歌の傾向が、ともかく自身のために語り得る場処をもち得ているという可能の条件に就て、自明な情勢はもとよりのこととして、更に文化の面から考察が進められなければなるまいと思う。アカデミックな国文学者の著になる和泉式部の研究を土台として、一躍情熱の女詩人与謝野晶子への讚美となることの腑に落ちなさは一般文化人の胸にありつつ、何故輿論としてそれが発言されないのであろうか。文学に即して見れば、従来の国文学研究が実社会から離れたありようをしていたからであることが、指されると思う。
 この年は佐佐木信綱博士の万葉集校訂の大事業が完成して注目をひいたが、従来、国文学者は不思議にも日本の国文学として今日の文学作品までがその研究の分野にとり入れられなければならないという、極めて当然な動きから、かたく身を退いて来た。彼等の専門的対象は徳川期で止った。特に、世界とその一環としての日本の文学が、質的に大きい変転を行い、波瀾を経つつある最近の「十年間あまり、国文学研究の中道が、殆どすべて本文校訂とか稿本作成とか、考証とか、索引作成とかいう資料整理的の仕事それ自体を目的とする範囲を出なかったことは著しい事実」であった。このことは、現代生活と文学とから研究の分野を切りはなしてしまったのみならず、専門家間に実証主義という名で呼ばれているそうであるところの一部の研究家を、その準備的研究の上に固
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