である如きであって実は克明な一人称である筆致で、郷土地方色をも十分に語った作品である。「夜明け前」の主人公は時代が推移して明治が来るとともに没落せざるを得なかった宿場本陣の主、精神的には本居宣長の思想の破産によって悲劇的終焉を遂げざるを得なかった男である。作者藤村氏が、抒情的な粘着力をもって縷々《るる》切々と、この主人公とそれをめぐる一団の人々の情感を語りつつ、時代の力、実利と人間理想とが歴史の波間でいかに猛烈にかみ合い、理想の敗北が箇人的生涯の悲惨として現れるかということを一般人生の姿として冷たく、傍観的に観察している態度等は、この作者がロマンチストとしての抒情性と社会に対する自然主義的立場とを作家的稟質、社会所属の本質、過去の全閲歴の蓄積として一身に具現している興味ある見ものなのである。
 文学に新しい要素を求めている当時の文壇の気運は、従来の日本文学の現れに見なかったほど夥しい「賞」を設定して、新人の登場を励ました。文芸春秋社主催の芥川賞、直木賞。文学界賞、三田文学賞、池谷信三郎賞等。やはりこれも時代の特徴の一つとして数えられることは、これらの「賞」を与えられた石川達三、高見順、石川淳、太宰治、衣巻省三その他多くの作家が、言葉どおりの意味での新進ではなく、過去数年の間沈滞して移動の少なかった純文学既成作家に場面を占められて作品発表の機会を十分持ち得ないでいた人々であり、長年の文学修業と鬱屈とを経、且つ又何かの形で主だった従来の既成作家の影響のもとにある人々であったことである。これらの作家達は、殆ど皆一通りならぬ文学・文壇への粘着力をもっていると共に、所謂文壇の垢にまびれていることも自然である。「賞」は、文壇の一つの側に門をあけたが、そこから出現した新進は、文学に新鮮活溌な風をふき起す代り、思惟と感情の異様な蜒《わだかま》り、粘っこさを文体にまで反映して、若き世代の文学が当面している社会的・文学的重圧の大きさを思わしめるものが多かったのである。
 日本文学と欧州文学との接触を、これまでのように欧州文学をこちらへ移入する面からのみでなく、日本文学を海外へ紹介する形に於て行おうとする動きも、この年の注目すべき一つの文学現象であった。最も肉体的表情であって翻訳を必要としないスポーツで日本は世界の最前列に伍していることや、所謂躍進日本の他の一面としての文化紹介を欲する政府当局の意嚮《いこう》などが、外務省文化事業部へ反響して、先ず国際文化振興会が半官的な組織で成立し、つづいて島崎藤村氏を会長とする日本ペン倶楽部が組織された。
 文学における能動精神、新たなヒューマニズムの気運は、フランスに於てこの年の六月「文化擁護国際作家大会」を開催させた。会議はパリで開かれ、参集国は日本を除く二十八ヵ国、代表者は二百三十名。まことに興味ある次の如き議題で世界的に討論された。
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一。文化遺産(伝統と発明。文化的価値の振興と保護。文化の将来。)
二。ヒューマニズム(ヒューマニズムと民族性。ヒューマニズムと個人。プロレタリア・ヒューマニズム。人間と機械。人間と閑暇。作家と勤労。)
三。民族と文化(民族文化間の関係。民族文化とヒューマニズム。民族文化と諸階級。諸階級と文化。民族主義対諸民族の現実。戦争と文化。少数民族の文学的表現。植民地諸民族の文学。読者大衆と玄人[#「玄人」に傍点]。孤独者と先駆者。翻訳。)
四。個人(作家と社会との関係、対立か一致か。自己の属する階級の表現としての個人。)
五。思想の尊厳(芸術家の自由の本質。表現の自由。検閲の直接的並びに間接的形態。作家と亡命。非合法文学。)
六。社会に於る作家の役割(公衆との関係。ソヴェト文学の経験。文学とプロレタリア。文学と青年。文学の批判的価値。文学の積極的価値。社会の鏡及び批判としての文学。)
七。文芸創作(社会の変化が芸術形式に及ぼす影響。連続価値と解体価値。文学的生産活動の諸形態。文学の社会的役割。タイプの模倣若くは創造。主要人物の形式。表現の新しい技巧。)
八。文化擁護のための作家の行動。その統制。
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[#地から3字上げ](以上『文化の擁護』より)
 文学は本質において民族的であると共に人類的であり、たとえどのような意図の上に行われても、ともかく日本文学が翻訳され海外紹介されなければその目的を達し得ないところに文学におけるソリダリティを語っている。日本ペン倶楽部の組織が支持された心の過程の内には自然その流れも加っているのであったが、「しかし同会が日本ペン倶楽部として生れ、国際ペン倶楽部日本支部と名乗るに至らなかったことは微妙な国際関係の現状を示唆するものである。」(『文芸年鑑』)
 国内における文化統制の具体化は、国際文化振興会の成立以前、既に前年松本学氏が警保局長であった当時、故直木三十五氏や三上於菟吉、佐藤春夫、吉川英治諸氏と提携して「文芸院」設立を目論んだ時から端を発している。当時、既に正宗白鳥氏その他が現在保護と監視は同義語であるとして、「文学者がさもしい根性を出して俗界の強権者の保護を求めたりするのは藪蛇の結果になりそうに私には想像される」と云った。
 文芸院はその後形を変えて「文芸懇話会」となり、文芸院が概して大衆作家を主体としたのとちがって文芸懇話会はプロレタリア作家以外の純文学作家をも多数包括した。「文化の宝船に、文芸の珠玉を載せて、順風に金襴の帆を孕ませて行く。それが文芸懇話会の使命でありたい。楫《かい》をとるもの、艪を操るものには元より個々の力の働きがあるであろう。しかし進み行くべき針路は定っている」太陽をめぐる天体の運行が形容の例にとられ、そのような「拘束でない節制」を文化にもたらす組織として成立し、事業を物故文芸家慰霊祭、遺品展覧会、昨年度優秀文学作品表彰、機関誌『文芸懇話会』の発行とした。そして昭和九年度(一九三四)の文芸懇話会賞(一千円)は会員である横光利一氏の「紋章」と室生犀星氏の「兄いもうと」におくられたのであった。
 ところが、この金襴の帆を順風に孕ませた宝船、文芸懇話会というものの文学に対する性質の矛盾は、この一九三五年七月、文芸懇話会賞が与えられた直後、授賞者決定に当って審査員の投票では島木健作氏が選に入っていたにもかかわらず、公表されない特別の理由から室生犀星氏と取かえられたことが一般に知られ、佐藤春夫氏が脱退の意を示した事件によって、悉く明らかにされた。
 この事実は、文学の領域には前例のない事件として、当然諸方面から文化統制に対する反対が生じ、二年前プロレタリア文学の退潮、それに引つづく沈滞期に叫ばれたよりはその社会的色調を濃くした現実の姿で文学の危機が再認識された。
 文学の本質が、非人間的人間関係に対する抗議と批判との精神であることを改めて主張する必要に迫られ、これに応じて、横光氏の純粋小説論に連関して漠然両者の接近が予期されていた純文学と通俗小説との文学的本質の相異が改めて究明されるに至った。通俗文学と純文学との質の相異はただ生活と文学的現実の中で、必然と偶然とに対する解釈を異にしているばかりでなく、「両者の区別は文学の本質である『反逆精神』の有無にかかる以上」通俗文学と純文学との対立は決定的であり、純文学の通俗文学への非妥協は文化を統制せんとする背後の力へ妥協せざることであると論ぜられたのであった。(一九三六『文芸年鑑』)


 一九三六年二月二十六日の事件の衝撃は、外見的に作家生活の変化の動機とはならなかったが、その影響は深くヒューマニズムの問題の展開上にあらわれた。
 前年度の秋から、文芸懇話会賞の授賞者選出にからんで文化統制の問題が一般文化人の関心をあつめていたが、この年は、ヒューマニズムの問題が、単に文学における能動精神、行動主義一流派の主張という範囲を脱し、暴力からの人間再生の要求として拡げられ、文化人にとっては文学以前の共通な生活的関心となって来たことに、重大な意味があったのである。
 現代の日本における社会事情の裡で、正当な意味で人間性を護り、知性を擁護し、次第に強調されつつある日本の伝統を発展的に嗣《つ》ぎすすめてゆくために、文化人はいかなるモラルを持つべきであるか。新しいモラルを、おのずから青春の裡に蔵して成育して来ている筈の若い世代の今日の生活の実状はどういう風であろうか。この探求と再認識との要求は、一九三六年の夥しい、青年論・恋愛論となって溢れた。河合栄治郎氏は教育者としての見地から、今日における大学教育、教授の学的確信の失墜と学生間に瀰漫している、あしき客観主義、人間的意欲の喪失について論じ、ヒューマニズムの鍵として一種の唯心的な人格論を提唱した。三木清氏なども、ヒューマニズムへの情熱の必要を唱え、青年達が、大人の青年論に対して、冷淡であること、俗的日常主義に堕した気分の中で生活を引ずっている現象を、誤った客観主義と日本独特の東洋的諦観に害された自然主義的リアリズムとの結合と観察して、批判した。河合、三木その他の諸氏によって、誤れる客観主義、あしき客観主義と云われたのは、機械的、反映論風に唯物史観が俗流化されて一般に流布されているため、青年の多くのものは、人類史的規模の中で主体的に自己の人間性の積極性をつかまず、何しろこの世の中で、と、現代の情勢に万端の責任を転嫁して、卑俗な事大主義の生きかたをしている、それが誤りであると指摘されたのであった。
 ヒューマニズムの問題が、かくの如く文学以前の問題として、現代文化の本質的方向として一般に感受され、討論されて来た事実はまことに慶賀すべきことであった。日本における「ヒューマニズムの伝統の乏しさ」につれて、「最近民族主義・伝統主義の擡頭と共に東洋的自然主義とヒューマニズムとの対質を内容とするこの課題は次第に重要性を加え来ている」そして「民族的と云われるもののうち多くのものが単に封建的なものに過ぎないということが」見落されてはならず、日本におけるヒューマニズムの伝統の乏しさは、この点に関しても今日の日本のヒューマニストが、西欧のルネッサンス時代のヒューマニストが、中世紀宗教の重圧をはねかえして、人間精神と肉体との自由であった古代ギリシア文化の復興を叫んだのと同じ関係で、古代文化の復興を云々することの誤りを三木清氏も指摘したのであった。三年前の文芸復興の声につれて、日本におこったロマン派、現在保田与重郎氏等によって提唱されている日本ロマン派が、素朴に過去へ飛躍して、ギリシア文化や万葉の文化、王朝文化を云々することが現実の文化を逆に引戻す作用をしていることが意味されているのである。
 青年論その他の形で旺《さかん》に討論せられるヒューマニズム論は、自然、良心的市民全般の生活態度への示唆として注目をひきつけずにはいなかったのであったが、残念なことに、多くのヒューマニズム提唱者は、それぞれの持論の内に、第三者が直ちにそれをもって行為的指針となし得なかった様々の微妙な矛盾を示していた。三木氏のヒューマニズム論は、あやまれる客観主義の否定、日本における社会生活と思想の伝統の特徴にふれて、今日のヒューマニズムの性質を明かにしようという努力にもかかわらず、あしき客観主義に対置するヒューマニスティックなものとして「主観性の昂揚」を、俗流日常主義の解毒剤として「理論への情熱」を提唱したのであったが、氏によって云われた主観性というものも、低俗な他力主義に対する主観の能動性の強調の範囲にとどまり、主観の内容は十分諒解させ得なかった。「理論への情熱」も同様であった。かかる観念の上に道を求めたヒューマニズムが、日常不本意な勤務や労働や従順を強いられている一般市民の人間性に、その生き方として行動の指針となり得なかったのは当然であった。
 三木氏によって云われた「主観性の昂揚」と「理論への情熱」という標語は、それなり直ちに能動精神、行動主義文学、ロマン主義者の間へ共鳴を生じ、一九三六年の文学の分野は、前年にない評論的活動
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