着せしめ、枕草子の専門家或は大鏡の専門家という、瑣末な活動に封鎖する結果をひき起した。
 整理された研究材料から、国文学としての組織立った学説、日本文学の発展・変化の内外諸関係を支配し、そして、支配しつづけて今日に及んでいる何かの法則を発見するべき段になって、現在、国文学研究者自身が、その法則を把握するに先ず必要な学者としての立場[#「立場」に傍点]の選定について、大なる困難、撞着、対立に置かれている。この困難性が、一方では国文学熱を高めつつある作用の逆の面として現出していることは、現実というものの微妙厳粛な所以である。日本文学古典の伝統を強調すればするほど、その伝統を客観的に、史的に整理するに必要な条件に制約が加わるという事実は、学問として確立する以前に、早今日専門家達を分裂、対立させているばかりでなく、日本人一般が、実際には、日本文学古典についてまだ何もまとまって正当に見通された知識、概括を身につけ得ていないということを結果している。電気の本質について知っているより遙により尠く、祖先の生活と文学との発生の姿、推移の相を貫く諸原則を知らされているにすぎず、漠然と、寧ろ風土的に日本文学の味を知らされているのである。
「もののあはれ」ということは佐藤春夫氏の今日的文学の核をなしており、「まこと」「ますらをぶり」「さび」「なぐさみ」等の言葉は保田その他の諸氏の愛好する語彙である。だが、それらの用語は天から降る金の箭《や》のように扱われ、古代・中世・近世日本の文学におけるそれらの基準の概括の背景と内容は説き明されない。かかる日本文学古典上の評価の規準の推移に関するまとまったものとしては寡聞にして僅に久松潜一氏の『日本文学評論史』二巻があるばかりである。
 きのう、そして今日の日本の文化の一般的実質が健全に発育し豊富であるというには未だ未だ遠い現実であることは、克服すべき将来の問題の一つとして十分認識されなければなるまい。その文学精神が欧化したと云われる日本の純文学は一つのN・R・Fによってどれ程さわがされなければならなかったろう。文学における日本の精神というとき、その専門家である国文学者は俗流孫引きの牽強に対して、常識の抱く疑問を明かにする文化的実力は有しないのである。日本の市民生活における文化一般の未発達、貧寒さということはこのような現実のありように対して云われるのである。
 一九三六年という年は、かようにして「もののあはれ」、「ますらをぶり」等が晦渋に呈出されつつある一方で、万歳と漫談、とりとめなくエロティックな流行歌とが異常な流行を見た時であった。文学における「嗚呼いやなことだ」と一味通じて更にそれを、封建時代の日本ユーモア文学の特徴である我から我頭を叩いて人々の笑いものとするチャリの感情に絡んだ気分のあらわれであった。鬱屈や自嘲がこういう庶民的な笑いかたの中に、日本らしい表現をもったのであった。
 このことは、しかし、日本におけるヒューマニズムのたださえかがみかかって現れて来ている腰を、一層弱くし、泣き笑いの人生へ人間らしさ[#「人間らしさ」に傍点]を追い込む危険を導き出したと共に、更に『文学界』などの論として、民衆は現実に対して批判精神などはちっとも必要としていない。彼等はあのように朗かに笑っているではないかと、文学における批判精神の抹殺、ある意味では文学そのものの存在意識を否定した見解をひき出した。この論の真の眼目は、生活の現実に立って今日のヒューマニズムが無方向、一般人間論としてはあり得ないこと、リアリズムにしろロマンチシズムにしろ、人間的立場に立つ以上現実批判なしにあり得ないことを警告しつづけて来ている一部の進歩的作家に対する駁論、否定にある。そして、先頃までは、すべての文学論議が常に知識人中心に扱われて来ていたにかかわらず、この、民衆は批判精神などという小五月蠅《こうるさ》いものを用としていないと云われ始めた頃から、文化と文学の対象に、民衆という語が現れて来た。これは将に刮目《かつもく》されるべき一つの点である。
 批判精神を持たず又必要ともしないのが本来あるがままの多数者であるという規定は、その非現実な設定にかかわらず、インテリゲンツィアと民衆との相互関係の見かたに又一つより低き方への動きを与えた。ヒューマニズムの問題のはじまりに、宙に浮いた知識階級なるものを仮定してそこでばかり物を云っていた弱点は、この時期に到って、インテリゲンツィアと民衆との游離という風に誇張せられ、インテリゲンツィアはさながら自ら知識人であることを負担として知慧の悲しみを愧《は》じるが如き身ぶりが現れた。
 森山啓氏の「収獲以前」という作品は、小市民としてのインテリゲンツィアとその庶民風な親族との家庭生活のいきさつを描いたものであったが、民衆生活の内に齎《もた》らされた知性(知識人となっている主人公によって)を、それによってより光明的な方向に生活を押しすすめて行くべき原動力としての関係において描かず、周囲の自然発生的な、所謂庶民的なものを批判なく受けうつそうとする受動的な物わかりよさ、素直さ[#「素直さ」に傍点]として扱われているところに、時代的な特徴が語られていたのである。
 中野重治氏「一つの小さい記録」「小説の書けぬ小説家」窪川稲子氏「くれない」等はかかる情勢の裡にあって、日常生活の様相においてさえも新たな一つの歴史の段階に入らんとしつつある階級人のそれぞれの苦痛の姿を語った。藤森成吉氏の戯曲「火」は脱獄後の長英と親友鈴木春山とが描かれ、「三十年」は昨年の同じ作者による「シーボルト夜話」の続篇として書かれた。貴司山治氏の戯曲「洋学年代記」には、学者としての良心と達識とのために国法にふれた幕末蘭学者の一群と間宮林蔵の運命とが扱われた。村山知義氏は「或るコロニーの歴史」に朝鮮人の生活を描き又「獣神」にこの作者独特のエネルギーと不思議な内部の分裂矛盾を示した。
 この年六月十八日にマクシム・ゴーリキイがその多彩多産な六十八年の生涯をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]で終ったことは、世界に少なからぬ感動をつたえた。ゴーリキイをしてしかく人類的な光彩ある活動と、才能の満開とを可能ならしめた社会の文化的条件を想い、翻ってその招来のためにゴーリキイが作家的出発の当初から共に労して来た歴史の推進力との相互的関係に思い潜めて、それぞれの国における歴史と文化との季節について考えたのは、ただ深い泥濘の中を歩いている日本の作家のみではなかったであろう。
 十七年振りでアメリカから帰朝した佐藤俊子氏が、十七年留守をしていたということから生じた却って一種の清純さ、若々しさでアメリカにおける日本移民、第二世の生活を「小さき歩み」に進歩的な目で描いたのは興味あることであった。
 国際ペンクラブ第十四回大会は、この年九月五日から十日間、アルゼンチン首府、ブェノスアイレスに開催され、日本からはじめて島崎藤村、有島生馬の二氏が代表として出席した。大会は、国際事情の複雑な背景を負うた。同じ六月ロンドンで第二回会議を持った国際文化擁護国際作家会議は、各国文化を脅しつつある「反合理的・反科学的エモーショナリズム」への抗議と、人間的な共同精神を失って専門化・瑣末化しすぎた現代学究への健康性の要求として、フランス支部から提出された新国際百科辞典の編輯を決定し、三ヵ年無裁判で投獄されていたドイツのオシツキイをノオベル平和賞の候補者として決定した。七月にはスペインにフランコ将軍の叛乱が起り、アンドレ・マルロオは政府軍の義勇軍に投じた。第十四回国際ペンクラブの大会は、会合地の関係もあって、英米ともに文学の現役を送らず、文学的には貧弱であったが、それにしても猶、日本から遙々出席した「夜明け前」の作者藤村は、深き様々の印象を与えられたらしい。一九四〇年の第十八回大会日本招致は、日本代表の努力によってオリムピック大会東京開催と年を同じくして決定された。
 この決定に因《ちな》んで、日本ペン倶楽部は日本独自の立場を持つものであるが、同時に、「文学と文学者達との間に決議された事項は文学を主軸として解釈さるべきであって、それに不必要にして余計な拡張解釈を加えることは誤りに陥り易い」こと、民間性が重んじられるべきこと、文化の相互的理解を深める機会として大国の襟度の示さるべきこと、又、年を同じくして日本文化連盟主催の万国文化大会も開催される由であるが、これとペンクラブの大会とは「依立する主軸と意図に相違ある」こと等が、諸方面から明かにされたのは、極めて妥当なことであったと云える。(一九三七『文芸年鑑』)

        今日の文学の諸経験
          ――明日の文学への流れ――

 さて、遂に我々の前には、将に暮れようとしている一九三七年の頁が現れた。この一年間に生きられた文学の諸経験は、その質においてまことに深刻である。
 前年の終りに近づいてから民衆本来の心の姿は、或る種の作家の主張する如く現実の生活に対する批判の精神などを必要としていないものであるという論の出現したことについては前に触れた。本年に入ってこの論は、純文学と民衆生活との懸隔という方向へ展開された。純文学の作品を、きょうの民衆の何人が読んでいるか。彼等は依然として浪花節を好んで講談本を読んでいるではないかという風に問題がおこされたのであった。
 そして、これ等の論者の言に従えば、これまでの純文学は民衆の真にあるがままの生活に何等ふれるところがない。要するに文学青年どものもてあそびもので、作家は遂に文学青年目あてに技法の末技末節に拘泥した堕落におかれているのがきょうの現実である、純文芸の雑誌の経営困難も単行本の売ゆきの減少もすべてそこに原因をおいている、須《すべから》くそのような文壇を解消せよと云うのである。
 以上のような論が、嘗て三年前に、何でも書け、作家は書けばよいのだ、化物じみた新進作家万歳という形で文芸復興を叫んだ人々によっておこされ、更に、その文学的存在をこれまで最も文学青年的層によって繋がれて来ている一群の作家・評論家によって支持された事実は、何と見るべきであろうか。
 成程最近の種々な文学賞の氾濫は、一層文学を愛好する青年を見えざる文壇というものの周囲につめかけさせ、そのことは現実に或る種の作家が、人間的にも文学的にも薄弱な少なからぬ若者に囲繞《いにょう》せられる結果をひき起している。それぞれの賞に関係する選者があることは、その選者である有力な作家と選されようと欲する文学志望者との間に、それぞれの作家の稟質を反映して様々の微妙な交渉をも生じている。だが、純文学が民衆の現実からはなれてしまったとしてその根本原因は、文学青年の咎でないことは自明である。謂わばそれらの賞によって文学を産む素地の萎縮を救い得るかのように考えた既成作家の文学観が問わるべきであろう。社会の現実の内で所謂知識階級と民衆との生活の游離が純文学を孤立化せしめた動機であることに疑ないのである。
 ヒューマニズムの問題において、飽くまで知識階級として独自の解決を見出そうとし、その不可能の企ての内で混迷しつづけて来ている多くの作家は、この文学の大衆化という再燃した課題に向っても、同じように民衆という語と作家という語とを内容的に全く固定して相対したものとし扱いつづけた。民衆にとってわかり易い文章を書かなければならない。民衆の感情にふれるところまで民衆の日常性の中へ下りて行って書かなければならない。そう主張するこれらの提唱をやや体系だてたものとして、谷川徹三氏の文化平衡論が現れた。日本の文化の歴史は、その社会的な背景の影響によってインテリゲンツィア、特に作家の持つ精神内容の高さと、夥しい制約を負うている民衆の文化水準との間に、甚しい距離が生じた。この不幸なわが文化の特徴が、今日文学と民衆とを切りはなしてしまっているのであるから、作家は、そのギャップを埋め、文化の平衡性を保つために努力しなければならぬとするのが、文化平衡論のあらまし
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