古典を摂取し得るであろう。畢竟バルザックは当時一風潮としてきざしはじめた人生批判なき市井生活の風俗小説の傾向によって読まれたにすぎず、ドストイェフスキーは不幸な再登場によって文学そのものの発展を混乱させている心理主義の趣好者を満足させたに過ぎなかった。
この期間、明治文学の代表的作家及びその諸作が研究の対象としてとりあげられたことは、一つのプラスであった。尾崎紅葉、森鴎外、二葉亭四迷、夏目漱石等の作家が見なおされたのであるが、ここでも亦逢着する事実は、明治日本のインテリゲンツィアの呼吸した空気は、昭和九年の社会と文壇とに漲ってインテリゲンツィアを押しつつんでいる気体とは全く異っていたという発見である。
過去の文学はもはやそれなりで今日の救命袋とはなり得ない。しかも、今日を明日へ押しすすめるべき未熟な、酸苦くはあるがそれが核であることだけは確であった世界観のよりどころを、自分の手で文学から追放してしまった人々は、自嘲的になった自己の内部に十九世紀のリアリストたちの情熱すら抱き得ない有様である。
不安の文学という霧がこの渾沌から湧き上った。時代の知性の特色は帰趨を失った知識人の不安で
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