されるべき範囲を脱し、文学を論じつつ、その論調を文学以外の規準で律するような危険を示して来た。批評文学は、昨年既に批評家自身によって随筆化されたと云われていたが、ここに到って一層その理論的骨格を挫かれて来た。一方的な飛躍は、遂に近代世界の文学が永い努力の蓄積によってかち得て来た文学評価における科学性の意義の抹殺に到達したのである。
 折から川端康成氏の「雪国」、尾崎一雄氏「暢気眼鏡」、永井荷風氏「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」等が一般に文学の情愛とでも云うようなもので迎えられたことは、これらの作家それぞれ独特の文学の境地と美と云われるものの性質とをもっているからである。が、特にその芸術におけるリアリティーの境地や美感が、所謂科学的な要素を全く含んでいないで、現《うつつ》と幻の境をゆくが如き雰囲気であることが、文学に同じ日本的なるものを愛するとしてもその問題と作品との政論化に賛同しかねていた作家層と読者とを広くとらえたのであったと思われる。
 然しながら、現実は川端、尾崎両氏の芸術的現実に終っていないのであるから、一方に真の大衆の生活感情をその文学の中に再現しよ
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