への観察として未しであろう。今日の現実にあって、従来云われて来た種類のヒューマニズムが多くなすところあり得ないという実際を、いかに身にひき沿えて自覚し、その自覚からどう抜け出してゆくかということにこそ、最近日本の文学にヒューマニズムの唱えられて来た将来への意義がこもっているのである。
今日の全体的経験はすべての芸術家にとって避け得ない全体的経験としてあらわれているのであるが、人間生活の具体的な現象にあって、全体としての抽象的経験というものは存在しない。あらゆる日常の諸経験は、各人それぞれの感性を通し、知性、どこで生きているかという居り場処を通し具象的な事実として接触をもって来る。新しい文学の生れる素地は、全体のうちに在る現実の箇々の諸条件、そこにある豊富さ、経験とその吸収とに際して働く意欲如何によって決定されるに違いない。現実の諸関係についての一層のリアリズム、一層の粘り、一層の謙遜にして不屈なる作家的気魄の確保が、今日から明日へつづく諸経験を貫いて、文学的結実をなすであろうと信じる。
附記
今日の文学を語る上からは、当然小説以外の諸ジャンルの現実にふれなければならない。筆者の勉強はそこにまで到っていない。その点については読者の寛恕を乞わなければならない次第であると思っている。ただ、最近「新万葉集」の選定が完結し、既に第一巻は出版されていることに一言ふれたい。「新万葉集」の選定されるに到った動機には、同質ならざる二様の意図が作用していたと思われる。一つは、明治・大正・昭和に亙る聖代に日本古来の文学的様式である和歌の歩んで来た成果を収めて、今日の記念とする意味であり、他方には純粋に歌壇の歴史的概括としての集成の事業である。
この「新万葉集」のために歌稿をよせた作者の数は一万八千人であった。合計三十七万五千首という尨大な数の中から、十人の現歌壇人の選者によって、選がされた。選者の一人である窪田空穂氏の選後の感想には、今日の文学の問題として様々の意味から深い感興をよびおこすものがある。
第一に選者をおどろかしたのは、和歌というものに反映している生活様相と心境との複雑さと、そのことに於て光彩を放っている作品の多さであった。
歌材の上から見ても、第一に多いのは社会人としての意識の下に詠まれたのが多く、大体それぞれ職業を通じて、そのことにふれている。職業の第一位は農業である。これは日本の生産との関係から肯けることであり、その態度には「農業を風雅なものとか、辛苦の多いものとか甘い感傷の歌は殆どなく」「職業としての農業をつよく意識し」「自意識と批評精神から来る重く苦しいものが流れていて、これが正に農業を営んでいる人の心の端的だろうと思わせられる」
次に目につくのは小学教員、工場内で職工として働いている人の歌であり、これらの人々の歌には歌材として第三者への間接性があるにかかわらず勤労が必要としている日常の緊張から「間接を直接ならしめて、歌としては清新な、力強いものを生み出している」というのは、意味深い文学上の一つの客観的事実である。
官吏、軍人、画家、銀行・会社につとめている人々。更に料理人、理髪師、土工等あらゆる階級の人々にとっての文学表現の形式となり得ている、その様式の浸透を、窪田氏は超階級性と見ておられるのであるが、直ちに、作歌上からむずかしさのために過去の歌でさけられて来ている職業を取材したものの多いのは、現代の歌の特色を語るものであると認めていられることも面白く、歌は「その社会的な点に於て散文文芸に並び得るものだと云える感がする」と述べられてある。
そして、恋愛の歌の如何にも尠いこと、親として子を思う歌に父親としての歌の増大していること、又子が親を憐んで詠んでいる歌の多いことも、現代の実相をつたえる傾向としてあげられている。
次ぎに目に着くことは、幼い児を持っている若い妻の死を悲しむ歌が、いかに多いかということである。悲しみと困惑とに浸されている父親の歌は、意外に感ずるほどに多い。それに較べると、若くして夫を喪った妻の歌は少いものである。そういう事柄がなくはないであろうと思われるが、その種の歌は少い。
いたましいことであって、意外に感ぜずにはいられないほど多いのは、呼吸器病患者の歌である。不治を覚悟しての床上で詠んだ、複雑な、又徹底した、その人のその境地を外にしては詠めないと思われる歌が実に多い。
更にいたましいのは、全生病院の患者の歌である。中には、事と心と相伴って、沈痛な、深刻な、全く他には見られない歌がある。
文学がその本質としていかに現実を雄弁に語らざるを得ないものであるかという動かしがたい実例を、ここにも私たちは見るのである。
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(
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