古典を摂取し得るであろう。畢竟バルザックは当時一風潮としてきざしはじめた人生批判なき市井生活の風俗小説の傾向によって読まれたにすぎず、ドストイェフスキーは不幸な再登場によって文学そのものの発展を混乱させている心理主義の趣好者を満足させたに過ぎなかった。
この期間、明治文学の代表的作家及びその諸作が研究の対象としてとりあげられたことは、一つのプラスであった。尾崎紅葉、森鴎外、二葉亭四迷、夏目漱石等の作家が見なおされたのであるが、ここでも亦逢着する事実は、明治日本のインテリゲンツィアの呼吸した空気は、昭和九年の社会と文壇とに漲ってインテリゲンツィアを押しつつんでいる気体とは全く異っていたという発見である。
過去の文学はもはやそれなりで今日の救命袋とはなり得ない。しかも、今日を明日へ押しすすめるべき未熟な、酸苦くはあるがそれが核であることだけは確であった世界観のよりどころを、自分の手で文学から追放してしまった人々は、自嘲的になった自己の内部に十九世紀のリアリストたちの情熱すら抱き得ない有様である。
不安の文学という霧がこの渾沌から湧き上った。時代の知性の特色は帰趨を失った知識人の不安であるとされ、不安を語らざる文学、混迷と否定と懐疑の色を漉して現実を見ない文学は、時代の精神に鈍感な馬鹿者か公式主義者の文学という風になった。そして、この不安の文学の主唱者たちは、不安をその解決の方向にむかって努力しようとする文学において唱えず、従来人々の耳目に遠かったシェストフなどを引き出して、不安の裡に不安を唱えて低徊することをポーズとしたのであった。
河上徹太郎、小林秀雄諸氏によって、その伝記が余り詳らかでないシェストフは日本文壇に渡来させられた。シェストフはキエフ生れのロシア人で一九一七年にロシアからフランスへ亡命した評論家である。『ドストイェフスキーとニイチェ』そのほか六巻の著作をもった男だそうである。元来シェストフの不安と云われるものは理性への執拗な抗議、すべて自明とされるものに対する絶望的な否定に立って、現実に怒り、自由に真摯な探求を欲することを彼の虚無の思想の色どりとしているのであるから、不安を脱出しようという精神発展の要因は含まれていない。
紹介者諸氏の驥尾《きび》に附して当時シェストフと不安の文学という流行語を口にしない文学愛好者はないようであったが、遂にこの流行は不安に関する修辞学に終った。そして、文学の実際は他の一方で皮肉な容貌を呈して動いた。
明治文学の再評価の機運があることや、不安の呼び声の裡に方向を失っている若手のスランプが刺戟となったりして、自然主義以来の老作家たちが、それぞれ手練の作品をひっさげ、数年の沈黙を破って再び出場して来たことである。島崎藤村は明治文学の記念碑的な作品「夜明け前」後篇を中央公論に連載しつつあった。永井荷風は往年の花柳小説を女給生活の描写にうつした「ひかげの花」をもって、谷崎潤一郎は「春琴抄」を、徳田秋声、上司小剣等の作家も久しぶりにそれぞれその人らしい作品を示した。そして当時「ひかげの花」に対して与えられた批評の性質こそ、多くの作家が陥っていた人生的態度並びに文学作品評価についての拠りどころなさ、無気力、焦慮を如実に反映したものであった。
正宗白鳥が、「ひかげの花」を荷風の芸術境地としてそれなりに認め、「人生の落伍者の生活にもそれ相応の生存の楽しみが微にでもあることを自ら示している」ところの、人間の希望を描いた作品であると評したのは、白鳥の日頃からの人生観のしからしめるところと理解される。だが、盛にシェストフを云々し、不安を云々する人々、及び、文学の社会性を重大に視る立場にある人々の多数までが、この「ひかげの花」については、作者荷風の抱いている今日の人生への態度にまで触れて批評するのを野暮として、荷風の芸のうまさ[#「芸のうまさ」に傍点]、たたきこんだ芸が物をいうところを、無条件に買うべしという点に一致したことは、確に特徴的であった。
知性の時代的な不安を云々する人々が、人間精神から鋭い不安をぬき去った荷風の芸術によって一層自分たちの不安を激しくされ、深められず、却ってうまさ[#「うまさ」に傍点]にすがって、職人的な作家の腕、文章道への関心の方向へと若い一部を流しやったことは注目に価する。荷風の人情本より歴史の上ではもっと古い句読点のない文章をもって「春琴抄」を書いた谷崎潤一郎は、大谷崎の名をもって呼ばれ、彼の文章読本が広くうり出された。しかし、その谷崎自身が、芸術家としての老いの自覚として、自分も年をとった故か昔のように客観描写の小説などを書くのが近頃面倒くさくなったと云っていることを、日本文学と作家生活とへの意味深い警告として心に聴き止めた人々は果して幾何あったであろうか。
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