ったのである。
 昭和七年(一九三二年)の春以来、執筆の自由を失っていた何人かの作家たちがこのころ追々過去の生活を題材として作品を発表しはじめた。村山知義氏の「白夜」その他代表的な作品があった。転向文学という独特な通称がおこったほど、当時は過去を描いた作品がプロレタリア作家によって発表されたのであったが、その一貫した特徴は、文化運動を通じての活動によって法律の制裁をも受けた当事者たちの箇人的な意味での自己曝露であり、良心の苦悩の告白であった。俺の本性はざっとこのようなものだ。実はこういう穢い、弱い、くだらないものももっているのだ。俺の良心は苦しんでいる。そういうような立場、色調でプロレタリア文化・文学運動への参加と敗北との経験が作品化された。そして、こういう作家の態度は、当時の気流によって、その作家たちの正直さ、人間らしさ、詐《いつわ》りなさの発露という風にうけとられ、評価されたのである。
 日本におけるプロレタリア文化・文学運動の全体関係においての敗北の時期にあたって、当時の多くのプロレタリア文学者たちが自分たちの経験を箇人的にのみみて、客観的に大衆の負うている歴史の特殊性と日本インテリゲンツィアの動向との関係として自身の敗北をも追求し、芸術化そうとするところまで腰が据っていなかったことは、今日の文学を語る上にも決して見逃すことの出来ない重大な点である。
 過去の若かった左翼の運動の日本的特徴の一つとしてあげられる素朴な英雄主義・公式主義と云われたものを発生させていた社会的原因そのものが、敗北に際しては裏がえしとなって現われた。一定のイデオロギーに対する人間的弱さ、箇性の再発見、インテリゲンツィア・小市民としての出生への再帰の欲望などが内的対立として分裂の形で作品にあらわれ、傷いた階級的良心の敏感さは、嘗てその良心の故に公式的であったものが今や自虐的な方向への拍車となりはじめた。
 この現象と一方に囂々《ごうごう》たる響を立てている文芸復興の声とは互に混りあい、絡まりあって、社会性を抹殺した文学熱、箇人化された才能の競争で一般的人間を描かんとする熱を高めたのであった。
 ここで注目をひくことは、プロレタリア文学運動の退潮を余儀なくした社会事情は、同時に所謂《いわゆる》純文学の作家たちの成長してゆく条件をも貧弱化せしめたことである。
 プロレタリア文学の否定することの出来ない意義の一つは、社会的現実の必然につれて、文学価値の内容として社会性を正面に押し出したことにある。プロレタリア文学運動の後退は、とりも直さず日本の全住民の思想的自由の限界の縮小である。過去数年間、新しき文学と作家の社会性拡大のために先頭に立っていたプロレタリア作家たちが、続々とあとへすさって来て、林氏のように自身の文学の本質を我から切々と抹殺し、或は西鶴を見直して、散文精神を唱え出した武田麟太郎氏のように一般人間性、性格、現実の文学的反映を云々するようになったことは、一見、これまでプロレタリア作家と純文学作家との間にあった摩擦を緩和し、文芸復興という懸声の下に参集せしめたようであって、実は、益々文芸復興なるものの空虚さを明らかにするに過ぎなかった。
 文芸復興の声は大きいが、文芸を復興せしめるに足るほどの作品は容易に生れて来ない。その困難を切りひらくための具体的な第一歩として、古典の再評価、作家の教養ということが続いて云われはじめた。トルストイ、ドストイェフスキー、特にこれまで日本に十分紹介されていなかったバルザック、スタンダール等の作品は流行となって翻訳、出版された。なかでもバルザックは特にもてはやされた。何故ならマルクスがバルザックの作品を評したなかで、バルザックが政治的には王党派であったにもかかわらず彼の文学におけるリアリズムの力は、どんな経済学の本よりも当時のフランスの社会相とプロレタリアートの未来を描破しているという意味の言葉を云っている。一部の作家たちには、その一事が、作家が見たままを描きさえすればそれはおのずから歴史を反映し、文学はそのものとして常に進歩的であるという彼等の新しいリアリズムの解釈法を便利に正当化しているように思われ、斯くは、バルザックに還れ、ということが云われたのであった。
 だが、バルザックの生きた時代と日本の一九三三年、四年という時代との間には、再びかえすことの出来ない八十年間の世界の歴史が横《よこた》わっている。古典を現代の滋養とするために何より大事なのは、より広くより深く歴史の動向に沿うて、社会生活の足あととしての古典を含味・批判・摂取することである。バルザックに還れと叫ぶ人々が、バルザックへ戻る前に既にそれをかみこなす自分らの歯を我から不要のものとして抜きすて去っているとしたら、そもそも何の規準によってこの一箇の巨大な
前へ 次へ
全23ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング