にしろ、そのような意志の自主的な発動に対する能動的要求は、今日の文学にどのように在り得ているであろうか。
本年度の特徴は、一方に素朴な形で文学の政論化が行われ、他の一方で、その政治的な傾向を回避する作品、理論が発生したことにある点は先に触れた。人間の精神の能動的な発動を希望する作家が今日現実に当面している困難の大さは、一朝一夕の解決を不可能と感じさせるものがある。暗く厚い壁にぶつかって撥《は》ねかえった文学の姿において、深田久彌氏の「鎌倉夫人」があり、阿部知二氏の「幸福」があり、石坂洋次郎氏「若い人」、舟橋聖一、伊藤整等の諸氏の作品がある。いずれもこれ等の作品は素材の広汎さ、行動性、溌溂さを求めている作者の意企がうかがわれるにもかかわらず、共通にそれらの作品の現実をつきつめて見ると作者の心の中でつくられまとめ上げられているものであるという実際は、深い示唆を含んでいると思う。この心につくられまとめられた世界とかげにいる作者との相互関係が又極めて単純ではない。主観的に現実の一部を形づくったことは、往年プロレタリア文学の創作過程にもあって、それはきびしい現実からの批判を経た。この時代の作者の主観は、少くとも或る人間的なものの歴史的主張の欲望に立って、その欲望の正当性の抽象化した過大評価から作品のリアリティーを損ったのであった。今日において、作者は、多く主観をひっこめて、現実のあるままの姿を描こうとしているようでありながら、その現実をうつす鏡は作者が今日の生活の波濤に対して辛くも足がかりとして保とうとするその人々の形而上学であると思える。この事実は例えば「幸福」における公荘一のありようを見ても、「若い人」における作者石坂氏が自身の芸術活動のモティーヴとして固守している超歴史的な本然性・人間性の主張、系統ある行為の目的性などを否定するという彼の系統だった現実への態度として明瞭に見られるところである。
阿部知二氏は「幸福」を今日の漱石文学とし「こゝろ」や「それから」に一縷通じるものとの念願に立って書かれたのだそうである。「こゝろ」の先生という人格や「それから」の代助と、公荘とを比べる人の心に、果してどのような感想が湧くであろう。漱石は彼の明治四十年初期の環境において、過去の形式的、馬琴的道徳と行為の動機における「自覚されざる偽善」とを烈しく対立させた。習俗が課すしきたりの行
前へ
次へ
全45ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング