ものを最初に抽象してしまい、益々それは「主観の高揚」や「理論への情熱」という方向へ発展させられて行ってしまっているのであるから、そのように論じ、執筆することそのことが既に職場であり職業である者以外の大多数の人々にとっては、自分たちの間では謂わばヒューマニズム論を論ずるに止り、自分たちの境遇の実際で主観を高揚させ、理論への情熱を高めようとしても、具体的解決のありようなさが一層身にしみて来るという実情である。日常の経済生活の逼迫とそのような精神的よりどころなさとは、落付いて本を読む気持さえも削いで行くかに見えたのである。
 ヒューマニズムの提唱が、その意識的、或は論者の社会的所属によって生じている矛盾の無意識な反映として内包していた誤れる抽象性によって、或る意味で文化の分裂を早める力となったことは、実に再三、再四の反省を促す点であろうと思われる。
 文化一般における上述のような意味深長な亀裂は、翌一九三七年に独特な展開を示すものとなったが、このことは当時文学の面に複雑な角度をもって投影した。純文学の行き詰りが感じられ、私小説からの脱出が望まれているのは前年来のことであるが、その脱出の方法が一癖も二癖もあり、云って見れば、社会悪を背負って尻を捲って居直った姿で小説などに現れて来たのである。
 一方でヒューマニズムが抽象論になっているために、現実の社会悪に面をそむけず、その垢の中に身をころがし、そこから再び立って来てこそ新しい時代の人間性が輝くのである。これこそ時代のモラルであるとし、高見順、石川達三、丹羽文雄の新進諸氏の作品は題も「嗚呼いやなことだ」「豺狼」等と銘し、室生犀星氏が悪党の世界へ想念と趣向の遠足を試みている小説等とともに、痛い歯の根を押して見るような痛痒さの病的な味を、読者に迎えられたのであった。
 石坂洋次郎氏の「麦死なず」という小説が、左翼運動への無理解や自己解剖を巧に作中人物の一人(妻)への誇張された描写にすりかえている等の欠点をもつ作品であるにかかわらず、一応興味をもたれたのも、当時のこのような空気とこの作者の示した不健全性こそが結びつき得たからによったのである。
 これ等の人間的感性と文学の頽廃に安ぜず、同時に、還り得べからざる王朝文学の几帳のかげをも求めない作家たち、深田久彌、山本有三、芹沢光治良等の諸氏は、それぞれ、モラルと真実との再誕を求めて作
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