反逆精神』の有無にかかる以上」通俗文学と純文学との対立は決定的であり、純文学の通俗文学への非妥協は文化を統制せんとする背後の力へ妥協せざることであると論ぜられたのであった。(一九三六『文芸年鑑』)
一九三六年二月二十六日の事件の衝撃は、外見的に作家生活の変化の動機とはならなかったが、その影響は深くヒューマニズムの問題の展開上にあらわれた。
前年度の秋から、文芸懇話会賞の授賞者選出にからんで文化統制の問題が一般文化人の関心をあつめていたが、この年は、ヒューマニズムの問題が、単に文学における能動精神、行動主義一流派の主張という範囲を脱し、暴力からの人間再生の要求として拡げられ、文化人にとっては文学以前の共通な生活的関心となって来たことに、重大な意味があったのである。
現代の日本における社会事情の裡で、正当な意味で人間性を護り、知性を擁護し、次第に強調されつつある日本の伝統を発展的に嗣《つ》ぎすすめてゆくために、文化人はいかなるモラルを持つべきであるか。新しいモラルを、おのずから青春の裡に蔵して成育して来ている筈の若い世代の今日の生活の実状はどういう風であろうか。この探求と再認識との要求は、一九三六年の夥しい、青年論・恋愛論となって溢れた。河合栄治郎氏は教育者としての見地から、今日における大学教育、教授の学的確信の失墜と学生間に瀰漫している、あしき客観主義、人間的意欲の喪失について論じ、ヒューマニズムの鍵として一種の唯心的な人格論を提唱した。三木清氏なども、ヒューマニズムへの情熱の必要を唱え、青年達が、大人の青年論に対して、冷淡であること、俗的日常主義に堕した気分の中で生活を引ずっている現象を、誤った客観主義と日本独特の東洋的諦観に害された自然主義的リアリズムとの結合と観察して、批判した。河合、三木その他の諸氏によって、誤れる客観主義、あしき客観主義と云われたのは、機械的、反映論風に唯物史観が俗流化されて一般に流布されているため、青年の多くのものは、人類史的規模の中で主体的に自己の人間性の積極性をつかまず、何しろこの世の中で、と、現代の情勢に万端の責任を転嫁して、卑俗な事大主義の生きかたをしている、それが誤りであると指摘されたのであった。
ヒューマニズムの問題が、かくの如く文学以前の問題として、現代文化の本質的方向として一般に感受され、討論されて来た事実はまこ
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