たものなのである。しかも、ただ一人にしてその多くの偶然を持っている人間が二人以上現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの集合は大偶然となって日常いたる所にひしめき合っているのである。これが近代人の日常性であり必然性である。」以上の推論の結着として、横光氏は、人間活動の真に迫れば迫るほどそれは実に瞠目的に大通俗であり、それを描きぬけば通俗でなくなる、「純文学にして通俗小説」たらんとする純粋小説(この言葉もフランス文学からの移植として)の主張が、成立てられたのであった。(傍点筆者)
興味ある点は、横光氏が人間の全き姿を、内部の思考と外部の行為との相互的発露、統一、矛盾において描くべきものと見ず、飽くまで両者の「中間」にその重点をおくべきものとしている点である。しかも、その肝心のところに、この作家にとって主観的に理解され自意識されていて、その社会的・心理的本質の追究はまぬかれている自意識というものをおき、そこで、偶然と必然という、人類が社会と思想との発展の歴史に決定的な関係をもって来た問題が溶かされ、今日の現実、近代人の現実は大偶然であるとし、「純文学であって通俗小説」の可能を見、「私などは初めから浪曼主義の立場を守り、小説は可能の世界の創造でなければ純粋小説とはなり得ないと思う」と断言したのであった。
ロマンチシズムの本質にある燃焼性と横光氏の自意識なるものとの関係も注意をひかれるところである。横光氏が近代人の資質としている自意識というものが常に人間をその内外に引さく作用をするとすれば、ロマンチシズムが世界の帝国主義時代の廃頽の中にあって益々その危険をつよめている。欲するがままに行為せんとする力はもたず、ロマンチストと我から称する横光氏は、「可能の世界を創造」する文筆の幻の範囲でのロマンチストであろう。そして、これまでの通俗小説が偶然にたよって成立っていたということにそれなりに縋って、近代人の必然は偶然であり、それは通俗であると、通俗なりの内容をうけついで立っているのは、何たる従順な市民の姿であろう。一九三七年一月に発表された同氏の「厨房日記」にあらわれたインテリゲンツィアとしての思想性の全くの喪失と、今日純粋小説が昔ながら通俗小説に終らざるを得ない諸事情の萌芽は、この純粋小説論にふくまれている多くの矛盾に根をおいているのである。
純文学、私小説は、その
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