動性という点で、(行動の方向は評価に際しぬきにされて)注目をひいたのであった。
現実生活の内部の矛盾は、行動主義文学者によってブルジョアジーと知識階級人一般の良心との激化する対立としてとりあげられたのであるが、日本におけるヒューマニズムの文学が提唱後四年経た今日に至っても未だ一種模糊退嬰の姿におかれているのは、社会情勢によるとは云え、その出発に於て、プロレタリア文学の蓄積と方向とを否定しつよくそれと対立しつつ、悪化する情勢には受動的で、社会矛盾の現実は知識人間にも益々具体的な階級分化を生じつつあるという社会・文化発展要因を抹殺したところに起因している。
上述のような行動主義文学の理論の擡頭につれて、その能動精神への翹望の必然と同時に、真にその精神を能動的たらしめるためには、今日急速に生じている中小市民層の社会的立場の分化、知識人の階級的分化の実情にふれて理解しなければならぬとする論者の現れたのは、極めて当然のことであった。
過去の若い日本のプロレタリア文学の運動が文学の政策において、機械的なものをもっていたとしても、社会生活の歴史に於てインテリゲンツィアが抽象的な知識階級[#「知識階級」に傍点]として独立した単位でないことは、知識人こそその知識を何かの形でいずれかの階級のものとして表白し且つ役立てている実際を観て明かに肯ける事実である。一人一人のインテリゲンツィアがこの社会のどういう階級に属しているかということは、「その出身階級の如何を問わず、現在の彼の全実践によって決定されるものである。従って彼がなそうとする仕事の階級的意義の如何によって逆に彼の階級的所属も、またその属しかたの性質も変化してゆく。これは明かなことのようであってしかも忘られがちなことである。」現代社会には「ブルジョア・インテリゲンツィアもあり、また小ブルジョア的・地主的・プロレタリア的な夫々のインテリゲンツィアが存在しているのである。」そして、このような現実の差別は、既に述べられているように、社会情勢・階級間の力の関係等によって二六時中動き分化しつつあるものなのである。(引用、窪川鶴次郎「インテリゲンツィアの積極的精神」)
この社会的事実は、一定の文学組織の有無にかかわりなき一箇のリアリティーである。
私達の生活している現実が右のようであるとすれば、文化・文学を正当に発展せしめようとする忠
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