めんとして机にしばりつけられたのであったが、古典作品の鑑賞に於ては或る意味でのペダンティシズムが跳梁するばかりであるし、作品の現実はその関心の中心が益々技巧専一の職人的傾向に陥り、しかもそれらについての是非の論は結局文壇の机上論に終始する傾きにあった。これにあきたらず、作家に生活的・文学的能動の精神を要求して起った一団の作家達があった。舟橋聖一、小松清、豊田三郎の諸氏で、これらの人々は雑誌『行動』によって行動の文学を創らんとしたのであった。
 彼等は作家のより広汎な社会生活と生活に対する積極性と若き時代のモラルとを自身に求めたのであった。けれども、第一これらの人々が社会と文学とに階級を認めざるを得ない今日の現実に反して、能動精神というものを抽象化してこれも漠然たる一般社会性の上に強調したことは、折角若き時代のモラルを創らんとしつつ、パン種の入っていないパンをふくらがそうと焦慮するに等しい本来的な無理があった。従って作品の実際に当っては、最も手近なかつ日常的な恋愛の推移の過程を、些かは感傷ぬきに雄々しく描こうとする努力、又は俗世間の利害の焦点の推移によって権力も推移する浮世の姿を描くとい
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