的な諸条件とが実にこみ入って絡みあって生じるその人の精神のコムプレックスは不幸な場合には一個の作家を窒息させ死にも至らしめるものだろう。しかし、作家に成長があるとすれば、畢竟《ひっきょう》はこの自身のコムプレックスと死力をつくしてもみ合って、それを最大の可能へまで昂揚拡大させ、表現してゆくその「変って」ゆく道しかないのであろうと思う。
車善六の作者が、作家として持っている複雑なコムプレックスは「小説の書けぬ小説家」以来ああいう跳躍の方向を試みていて、いく度か床に重く落っこちた揚句「空想家とシナリオ」であのようないかにもその人らしい跳躍旋回の線を描き出した。そして、この作者が自身のコムプレックスに対してもっている健全な判断は、それが二度とは貰うことの出来ない昔の武士の「敗け褒状」のようなものである悲痛さについても、十分知っているにちがいない。
得能五郎の出現の蔭に、同様な精神の弾機があるとは、作品の現実の呼吸から感じられないと思う。五郎と彼の見る事象との間には空気があり、散歩がある。一田福次の出現の文学上の血脈は『はたらく一家』という短篇集に広津和郎氏の序文がつけられてある、それらの
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