ことと切りはなせないものだろう。
今日、作家のより社会的な成長が云われるとき、めいめいが自身のコムプレックスについて、謙遜にかつ熱く考えてみる必要はあると思う。果して、文学の仕事に従うような核心的なものが自身の精神のうちにあるかどうかについて、若々しく憂悶する美しさもあっていいのではなかろうか。『文芸』の当選作「運・不運」(池田源尚氏)を読み、選評速記を熟読して、深くその感に打たれた。
三
「運・不運」(池田源尚氏)は、この作だけについて決定的なことを云われたら作者も困る作品だろうと思った。『文芸』の今回の選には満場一致のような作品がなくて、そのためかえって話題にのぼった各作品が計らず縦横から相当突こんで語られ、それにつれておのずから今日の文学の諸相も示されている。その点が一般の読者にとっても興味深かった。
未完成な作品として「運・不運」はそのことを積極的な評価として推薦されているわけだが、未完成なのはこの作者と作品のどこのことについてかと、考えさせられた。それは主として小説を書く技術のことではないのだろうか。何故なら、この作者は自分の描こうとする対象への当りかたの根本には、既に一種心得顔のところをはっきり出しているのだから。千六について「若い男が詩人になる経路もきまっている」という箇処のあたり、または同じ千六が「足を折るとまたしばらく詩人になった」というような人生的なようなまとめた文句にして表現しているところ。そういう心情のモメントの概括は本質において常識で、土台それでまとまりがつくなら小説はいらないと云えるような種類のものなのだと思う。この作者はそういう表現をも人の世の姿へうち興じての味として活かそうとしているらしいが、結局は全篇の基調がそういう作者の現実への当りかたから角度を鈍らされていて、青野氏の評言どおりねてしまったのだと思える。この「運・不運」は書き改められる、材料が惜しいと宇野氏が評しているが、書き改めるということの核心は、作者が現実と自分との角度をしゃんと明瞭にして姿勢を立て直し、改めてかかる、ということと同義なのである。
この作品評で、宇野氏が生態の描写ということをよくないとして、おのずから系譜的作品がそれとちがうべきことを暗示していることも興味がある。文学精神の低さについて関心を示している青野氏が、この作品が生態描写
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