として作家が変るというからは、やはり執拗にそれぞれの作家のよりひろく高い成長を目標として語られ考えられなければならないと思う。
題材主義に対する批判は、昨年から今年の前半にかけて各方面からとりあつかわれた問題であった。この段階は経過したものとして、今日作家が自身の成長としての変りを希うとき、自身のうちにどんな内的な契機がつかまれて行ったらいいのだろうか。
十一月の文芸時評で、平野謙氏が、日本の自然主義以来の文学伝統の分析からこの点にふれ、作家が何によって書くかということの血路的打開の標本として、中野重治氏の「空想家とシナリオ」の車善六という人物の出現、伊藤整氏の得能五郎の存在、徳永直氏の一田福次の存在にふれておられた。
一つの着眼であると思われたが、作家は何の力によって成長展開するかという前途多難な課題の内からみると、あの三通りのそれぞれ一風変った名の持主たちの出現と存在とは、さらに一歩を深めて、それぞれの作家がその精神のうちにもって生きている人及び作家としてのコムプレックスの相異にまで迫って、語られなければならないものだと思った。
一人の作家の生きる時代の歴史性と、個性的個人的な諸条件とが実にこみ入って絡みあって生じるその人の精神のコムプレックスは不幸な場合には一個の作家を窒息させ死にも至らしめるものだろう。しかし、作家に成長があるとすれば、畢竟《ひっきょう》はこの自身のコムプレックスと死力をつくしてもみ合って、それを最大の可能へまで昂揚拡大させ、表現してゆくその「変って」ゆく道しかないのであろうと思う。
車善六の作者が、作家として持っている複雑なコムプレックスは「小説の書けぬ小説家」以来ああいう跳躍の方向を試みていて、いく度か床に重く落っこちた揚句「空想家とシナリオ」であのようないかにもその人らしい跳躍旋回の線を描き出した。そして、この作者が自身のコムプレックスに対してもっている健全な判断は、それが二度とは貰うことの出来ない昔の武士の「敗け褒状」のようなものである悲痛さについても、十分知っているにちがいない。
得能五郎の出現の蔭に、同様な精神の弾機があるとは、作品の現実の呼吸から感じられないと思う。五郎と彼の見る事象との間には空気があり、散歩がある。一田福次の出現の文学上の血脈は『はたらく一家』という短篇集に広津和郎氏の序文がつけられてある、それらの
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