られているわけなのだが、作家としての特徴を生かすことを語っている徳永直氏の文章が具体的で、わかりよかった。
ほかのあれこれも読んでいるうちに、今日作家が書くこの種の文章に、一つの特色の現れていることに注意をひかれた。
『都新聞』の文芸欄に先頃二人ばかりの作家たちがやはり時局に対しての感想を載せたことがあった。あの時、或る作家の文章が、その部分を切って、名をかくして人に読ませたら、おそらく読まされた者は駅売りのパンフレットのような種類の文章の中の数行を読まされたのだと思うに相違ない文章の書きかたであったのを、つよく印象づけられている。
書いている事柄の客観的な実相をその作家がちゃんと理解していないとして、わからないままにもそれを云おうとする何かの意図があるなら、作家なのだからせめてはその人らしいものの云いよう、表現で書かれたらばと思われた。
これまで云いもしなかった社会部面について書くと、作家ABCは消滅して、啓蒙パンフレット屋がかく通りの用語、表現で作家が書きはじめるということは、過渡期のあらわれとしても、現代文学の明日への真実な成長のために、考えさせるところが少くないと思う。
今日作家が、その歴史的であるべき覚悟の表現においていよいよ勁《つよ》く文学的であるよりも一般化してしまう傾きを示しているという事実は、私たちの関心を十分そこに沈潜させる価値をもつ現象だと思う。何故なら、今転換期と称されている時期は非常に永い見とおしで日本の社会と文学との将来に横たわっているのであるから。
二
社会生活が刻々に変化している。そのなかで作家が変らないというようなことは現実にあり得ない。今日の日本の特徴的な相貌としては、云わば自然なそういう作家の変りかたにおいて、作家の変ることが語られているのではなくて、たとえばこれまではシャボテンであったがこれからは蘇鉄でなければならないと、銘仙から金糸でも抜くことのように云われ勝なところに、沢山の問題と作家にとって具体的な困難の多くが畳みこまれていると思う。
作家が文学の仕事の中で変るという場合、それはどんなことを意味するのだろう。一人の作家が変った、ということは、いつも一人の作家が成長したということと同じではないという事実を、どこまで心にだきしめて、変るということが云われているのだろう。
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