風に傾いていることは肯定して、生態描写そのものが、文学における発生に際して既に文学精神の或る低下に立っているものであることについては、黙していることも、考えさせるところがある。
 そして、評者たちの言葉が一致したことは、本当に新しいという作品のないこと。何もこの人が小説を書かなくてはならないと思えないような人たちが今日はどっさり小説を書いていること。そういう作者たちが、必しもこけ嚇《おど》しやはったりを試みないのでもない、という事実である。近頃の同人雑誌の小説について語られていることなのであるが、それらの言葉をじっくりと胸にうけとって考え深めて行って見ると、日本の現代文学がもっている次の世代の精神の地味ということについて、何かこわいようなところがある。
 何もこの人が書かなくてもと思える小説ということは、題材として特異な経験がそこにないというのではなくて、ありふれたような事象でもありふれなく生き貫く個々の文学精神が萎靡してしまっているということにほかならない。その人をして小説をかかしめている精神のコムプレックスの必然の感銘がなく、小説が字面で書かれているということである。一定の人生を見てかきながら、それにふさわしい人生の見かたがないという意味を云っている青野氏の言葉は、この一二年間所謂素人文学というものへの無責任な作家の譲歩が、今日に結果した一つの大きい文学上の問題だと思う。
 或る作家たちがこの三四年来の波瀾の間で、脱皮しようと焦慮した動きは、果してより強勁な現実のみかたを持とうとする方向をとっていただろうか。今日、声々をあげて変るということについて語られているうちに、おのおのの作家精神のコムプレックスの成長の意味が文学の価値において見られているだろうか。このことは、たとえば『文芸』の選に当って一つの作品がポオの有名な「アッシャア家の没落」を題材にしていることを明かに指したり、他の或る作品が百分の一チェホフの「六号室」と百分の五の「決闘」をもっていることをあげているのが宇野氏ただ一人であるというような、些細のようで案外文学の実質の鑑別力としては意味のふかい例となっても現れて来るのである。

          四

 広津和郎氏の「巷の歴史」宇野浩二氏「器用貧乏」「木と金の間」をはじめとして、今年は系譜的な作品がどっさり書かれた。十二月の作品も寒川光太郎氏「嶺」半
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