今日の文学に求められているヒューマニズム
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三七年七月〕
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 今日、文学の大衆化ということが非常に云われて来ている。かつてプロレタリア文学が、芸術の内容と表現における社会性との問題にふれて、従来の純文学と通俗文学とは質において異った階級の社会性に立つ文学として、文学の大衆性をとりあげた。当時の大衆という認識の内容の中心は労働者・農民におかれてあった。通俗文学はなるほど数の上では多勢によまれているであろうが、描かれている生活の現実は勤労生活をしている者の日常の悲喜を活々とうつしているのではない。都会の安逸な有閑者の生活に生じてくる恋愛中心の波瀾、それをめぐっての有閑者流な人情の葛藤の面白さにすぎない。勤労大衆の文学は、その内容も表現も勤労者の生活に即したものでなければならないという理解に立っていたのであった。
 純文学はこの時代、はっきりとした対立をもって、プロレタリア文学の運動が当時の発展の段階で努力の目標としている大衆化の観念と対峙していた。通俗文学の作者も自信をもって、通俗小説の彼らの所謂《いわゆる》大衆的本質を固持していたのであった。
 今日、再び文学の大衆化が云われているのであるが、これは、かつてプロレタリア文学が独自の立場から、大衆性をとりあげた時代とは大いに趣を異にして来ている。あちこちで現在聞える大衆化の声は、主として従来プロレタリア文学に対して純文学を守って来ていた文学者の領域から響き出して来ている。これまでの純文学の作家の日常生活が余り特殊な文壇的或は技術的範囲に限られていた結果、そういう作家の社会的生活の経験の貧困は作品の質の著しい低下、瑣末主義を惹起した。一方、この四五年間における社会情勢の激動はこれまで純文学の読者であった中間層の急劇な経済事情の悪化をもたらした。経済事情の悪化は、原因として日常のこまかいものにまで及ぼしている増税、それに伴う物価の騰貴が直接のきっかけとなっており、増税のよって来るところの同じ源から、誰の胸に問うても明らかな思想的な一方的傾向の重圧がある。社会の事情は昨今まことに複雑である。民衆一般が手近に分りやすく知り得ない諸事情の錯綜の結果、或は率直に闡明され得るなら分明となるはずのところをそれが出来ない事情があるため、一層ものごとが複雑になっているというような、二重の複雑が平凡な民衆の生活の思いよらぬ心持の隅にまで影響している。
 従来の純文学の題材、手法は、こういう困難な日常におかれている人々の感情にぴったりしなくなった。作家の社会的孤立化に対する自覚と警戒、その対策が、文学の大衆化の呼声となって現れて来たのは、本年初頭からのことなのである。
 こういう事情でとりあげられているきょうの文学の大衆化の問題について、二つの問題が常にこんぐらがってもち出されて来ている。それは、文学の大衆化ということの本来の実体についての第一に行われるべき研究と、一人一人の作家が自分の芸術を大衆化してゆくにはどういう実際上の方法によるべきであるかという第二の研究とが、とかくいちどきに語られている。そのために、先ずはっきりと知りたい「大衆」という言葉の本体さえ見きわめられず、漠然、作家も大衆の感情を感情せよという風な流行が生じ、そのことは結果として、あり来った純文学の単純な在来の通俗化をひき起したりしている。『文学界』六月号所載川上喜久子氏の「郷愁」という作品などは、文学の大衆化が誤って理解された芸術的実践の一つの不幸な標本を示していると思われる。
 ひとくちに、大衆と云っても、その規定のしかたはいくつかあると思う。少くとも、大衆が低い文化をもっている方が御し易いという視点にたって大衆の文化を導いてゆく大衆に対する理解と、その社会を構成している多数の人々がだんだんましな生活をやってゆける方向に導かれなければ全体として社会の発展や幸福はのぞみ難いものであるとして大衆を見る観かたとでは、全く対蹠的な性質をもっている。漫然と、政府に支配されている者一般として大臣や何かでないもの全体として大衆というものを感じている人もあるであろう。
 大衆というものを、文化においても創造的能力より消費的面において見る、つまり『キング』と浪花節と講談、猥談をこのむものとしてだけ見て、しかもそういう大衆の中には種々な社会層の相異があり、その相異から生じる利害の相異もまたあるという現実を見ない一部の人々は、文学の大衆化は大衆の文化水準の最低のところまで作家がさがってゆくことであるとする。文学そのものが本来の性質としてもっている芸術の力によって読者の生活の感情を
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