ツべきものとされている三〇ばかりの文化事業団体のほとんどすべてが戦犯的な団体であった。
同じく文部省が編纂発行した『新教育指針』二冊は教師のためのガイド・ブックと予告されていた。しかしその内容は必ずしも民主的な方向を明示しているとはいいがたいことが一般に指摘されている。
文部省の「民主化計画」はこのようにして進められていたが、一方に教師の生活難から引き起こされた待遇改善の要求運動は四六年秋から次第にたかまってきた。この要求運動は全国に高まり四七年十二月には全国父兄大会まで持たれた。そして教育民主協議会(K・M・K)が組織された。待遇改善要求の期間を通じて田中文相の演じた役割は非常に不成功であった。彼は保守性をおおいかくす宗教的なゼスチュアさえも失った。一九四七年一月吉田内閣が補強政策を行ったとき、田中耕太郎は罷《や》めさせられた。英国経済史の専門家で慶大教授・経済学博士高橋誠一郎が文相となった。
高橋文相は四月総選挙の結果吉田内閣が総辞職するまでの僅か数ヵ月の文相であった。この間に教育に関する二大法案「教育基本法」および「学校教育法」が議会を通過した。別に極東委員会の「日本教育制
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