〇五)、女学校(官公立九八二、私立四一四)、実業学校(官公立一、〇四四、私立三三五)、高等学校(官公立二八、私立四)、専門学校(官公立一五一、私立一八一)、大学(官公立二二、私立三六)、教員養成諸学校(高等師範七、師範五五、青年師範四六、臨時教員養成所その他三三)。教員養成諸学校において、男子卒業者一五、一一四に対し、女子卒業者が僅か八七一であることは注目される(一九四六年)。
 育英事業 インフレーションによる学生生活の困難は、大半の学生に校外勤労による学費の補充をよぎなくさせている。同時に奨学資金の貸与額は飛躍的に膨張した。一九四六年度一〇、五六六人の学生が奨学金を受けた。一九四七年八月までに一三、四九五人となり、八月の調査では二八、七六一人に増大した。奨学金貸与月額は四、三一六、七七〇円にのぼっている。

        8 国際文化組織

 日本ペンクラブ 国際ペンクラブの日本支部として組織されたペンクラブは、一九三六年のヴェノスアイレスの会議を最後として国際的連関をたった。ドイツにおけるファシズムの擡頭に対してヨーロッパおよびアメリカの文化界には、ファシズムに反対する人民戦争の共同活動がはじまった。既に満州や中国への侵略戦争に着手していて、ドイツのナチスとの提携を考えていた日本の軍事的権力は、日本ペンクラブが反ナチスの線で国際的に結ばれることを嫌った。ヴェノスアイレスに日本代表として出かけた作家故島崎藤村は、政府のこの意志をよく理解していた。各国の反ナチス決議に対して曖昧な、儀礼的な態度を示しただけで帰国した。その後ペンクラブは特に「日本ペンクラブ」と改称した。戦争と侵略とにとって邪魔にならないものにしようとした。それでさえも戦争が進行するにつれて存在が許されなくなって解散した。
 一九四七年二月に、「日本ペンクラブ」は再建した。第二次ヨーロッパ大戦後における第一回国際ペンクラブの大会が、一九四六年の夏、ストックホルムで開かれた。それに刺戟されて日本ペンクラブも活動を開始した。日本ペンクラブは、「ペン」による国際親善運動を目的とし、国際ペンクラブへ正式加入して日本支部設立を計画している。事業として、現代日本文学の海外への紹介を計画している。
 けれども、現在の日本ペンクラブの性格は、各方面から疑問をもってみられている。何故なら、再建された日本ペンクラブは
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