cの活動はこの困難を救うためにも要求されている。
組合や職場の演劇に対して経営者は、その費用を出すことで経営者側の好む芝居を上演する劇団にしようとしている。この計画はあまり成功しない。何故なら、観客がとりもなおさず働く人々であるから、自然働く人々の生活的な判断力でその芝居を批判するから。
3 音楽
戦争中正常な意味での音楽は日本の人民の生活から奪われた。演奏会曲目にはドイツ音楽だけが許された。レコードでさえアメリカやイギリスの音楽は禁じられ、子供の唱歌は兵士の歌う軍歌と同じものにされた。演奏会は常に何かの形で、軍関係に義捐《ぎえん》の催しでなければならなかった。オーケストラ部員は白と黒との服装を捨ててカーキ色の国民服というものを着た。すべての音楽家は広い戦線のあちこちに慰安隊として動員された。三浦環のような歌手さえ満州へ行かなければならなかった。小学校の音楽教育は急にドレミファからハニホヘトに変えられた。そして軍事的な目的で音感教育がやかましくいわれた。しかもこの子供達が歌う歌は軍歌しかなかった。
このようなおそろしい状態からやっと日本で音楽がよみがえろうとしている。楽器の不足は各家庭や学校の無邪気な音楽愛好心を悲しませている。音楽会場の不足はいろいろの音楽的催しに不便を与えている。軍歌に変って流行歌があらわれ、それは映画の主題歌から最近ではアメリカ流行のブギウギの真似までがある。しかし健全な家庭で親も子供も歌ってよろこぶようなホーム・ソングは生れていない。その場所をうずめているのはフォスターなどの古典歌謡である。
ラジオは古典音楽鑑賞の他に歌謡指導をしたり、職場の音楽紹介を行ったりしているが、日本の作曲の水準が低いために新しいいい音楽の発生は困難である。
戦争中洋楽の日本化が求められて作曲家たちはそのために苦心した。日本の宮廷音楽の主なものであった雅楽のメロディーを応用したり、日本の民謡のテムポを生かそうと試みられたが成功しなかった。雅楽は元来が蒙古のラマの舞踊音楽から転化してきた原始的なものであるし、日本民謡のメロディーは今日の日本人の感覚のダイナミックな要素を満足させない。官立の音楽学校の傾向は長年ドイツ音楽の系統に属していた。フランス音楽は概して官立の音楽教育から閉め出されていた。一九四六年に音楽学校長は小宮豊隆に変った。日本の
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