驕B
一九四七年秋以後、民主的評論家の陣営内の混乱は、一応整理された。若い評論家たちは、多面的な彼等の活動を通じて急速に、確実に成長しつつある。
一九四七年に入ってから、支配権力の民主化サボタージュにつれて、文学評論の面にも反民主的活動家が現れはじめた。今日彼等は表面上はファシスト文化理論は語らない。しかし日本の民主的文学運動とその創造活動に対して、勤労階級とインテリゲンチャとの分離を宿命的なものに描いてみせる。民主主義の本質を反社会的個人主義にすりかえて示す。民主的作家の善意を嘲弄的に批評したりすることで、日本の人民の民主化の希望とその可能性をあやぶませる目的を達している。一段と素朴な形で民主的文学を無価値なもののように思わせようと努力している人々に、林房雄、石川達三、その他の作家の自己擁護の放談がある。
青野季吉は、一九二〇年代の末には、日本の進歩的な文学評論の活動家の一人であった。ところが当時の野蛮な力に屈服してから、今日になっても彼の民主的活力を回復しない。最近の彼の文学に関する発言のすべてが、今日の民主的文学に決して触れないのは注目すべきことである。
民主的文学の陣営に属さぬ人々が、「かえりみて他をいう」という態度で、主として自然主義時代の作家や日本の明日にとっては、昨日の作家である人々についてばかり多く語りはじめていることも注目される。彼らの健忘症はおどろくべきものである。一九三三年に日本の民主的文学運動から、保身のために自分たちをきりはなし、対立者として自分を表明した作家、評論家がその後みじかい数年の間にどんなめにあったかを忘れたらしい。彼らにとってもその人間的存在と文学との守りてであり、ファシズムに対する抗議者であった民主的文学者に弾圧を集中させることで、彼らの得た利益は一つもなかった。彼らの市民的自由も思想も文学も無抵抗に殺戮されたばかりであった。
勤労者ばかりの文学グループに、理論・評論のグループは少い。今日はまだ勤労階級の文化は、評論活動をたやすく行うほど文学的な専門知識を蓄積していない。しかし近い将来に必ず生活的、文学的な民主的評論家が勤労者の間から生れるだろう。彼らは腐敗したジャーナリズム文学に毒されながらも、その一面には生活の現実に基礎をおいた強い判断力をもっている。今日これらの人々は、勤労人民として自然な自分たちの文学に対する
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