謔、な関係でとりまいているかを、「客観的」に描き出す「社会小説」が日本の古い「私小説」をより広い性質に発展させるといっている。彼のこの文学理論は、彼の作品との関係で研究されるとき、興味あるヒントを読者に与える。丹羽の「社会小説」論においては、「客観的」ということが彼独特に扱われている。即ち彼における「客観」は、作者がただ一つのレンズにすぎないということを意味している。作家自身がどのような角度で今日の日本の歴史的条件にタッチし責任をもっているかということは、この作者にとって人間的追求の問題の外におかれている。丹羽のこの「客観」主義こそ、彼の戦争協力の正当の理論である。もし一人の作家が、歴史に対する自主的な社会的立場を自分に向って要求しないで、一つのレンズにすぎないものと認めるなら、軍部の力によって何処へその作家が送られようとその行動に責任はないことになるだろう。何を見せられようとも、また見せられた現象を皮相的にレンズにうつしたとしても、それが人道上文学上、恥ずべきことであると考えられるだろうか。彼の「客観」の理論の底には、このような心理的な人間的責任回避の動機をひそめている。読者は彼の「社会小説」を、ある時は興味をもって読みつつ、その自然主義的な「客観」に批判を抱いている。
 詩 日本の現代詩は、主としてフランスの象徴派の影響のもとに出発している。アメリカのホイットマンの影響も民主的詩人の間には生かされている。
 戦争中詩人たちの多くは、ミューズと一緒に活動するよりもマースと一しょに活動した。女詩人で熱心にファシズムを讚美した人もある。高村光太郎その他、その才能を人々に愛されていた詩人たちが、戦争に協力し絶対主義を謳歌したことは、悲しいみものであった。フランスのシンボリズムの上薬ははげた。そして日本の暗い封建の生地をあらわした。
 この痛手から詩人が自分をだまさないで回復することはむずかしい。詩人たちには、時間の余裕が与えられる必要がある。
 戦争に協力するにはあまり若すぎた詩人たちが、いま活動を開始している。彼等の間に二つの傾向がある。一方は、フランスのシュール・リアリズムを踏襲している。これらの詩はテーマが観念的であるばかりでなく、日本の詩には字づらで一種の絵画的効果をあらわす漢字が利用されるために、この流派の詩人の作品は一層難解にされている。彼らが模倣からぬけだ
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