スめの商品としてより多く需要されてきている。この種の作家の小説には、常に美術以前の煽情的插画が載っている。
一九四六年一月から文学雑誌『近代文学』が発刊された。『近代文学』は、三〇歳前後のインテリゲンチャ作家、評論家を集めたグループである。彼等の主張は、日本の現代にはまだ半封建的要素が非常に濃く残っているから、ヨーロッパ的の意味での「近代」を日本の社会的精神と感覚にもたらさなければならないという点にある。この主張は、このグループの人々の文学活動が「自我の確立」を中心課題とすることによって表現されている。日本の社会は、言葉の完全な意味でのブルジョア革命を経ていないという一応は尤もな理由から、このグループの「近代」の主張はある程度の共鳴者をもっている。しかし、このグループの致命的欠陥は、一九四五年の秋にそこを足がかりとして出発した「近代」と「自我」の探求を、その後の二年間に社会史的に発展させえない点である。『近代文学』の多くの人々は、日本の当面している民主主義の性格がブルジョア民主主義革命の遂行とともに、そのステップが人民的な民主主義にまでのばされなければならないものであるということを理解しない。日本のブルジョアジーは、その階級の高揚期に向う明治においてさえもブルジョア革命を完成する能力をもっていなかった。それが必然の原因となって、今日日本のブルジョア民主革命は勤労階級の推進力を中心にふくまなければ、ブルジョア革命さえ進行しなくなっている。『近代文学』の「近代」と「自我」は、世界歴史におけるこの日本の進みゆく現実との有機性で自身の課題の前髪をつかんでゆくようなダイナミックな知力を欠いている。彼等の「近代」は、現代からとり残されつつあり、「自我」は、既にヨーロッパでも東洋でもその破産が歴然としているブルジョア個人主義との区別を失いかけている。軍国主義は日本の知性を未発育のままひねこびさせた。『近代文学』には、その精神上の「戦争の子供」の根跡が強く残されている。このグループの若い作家、評論家たちは自身の社会的文学的活動と成長のための努力を、ジャーナリズムの上での流行児的存在にすりかえつつある。そしてもっとも危険なことは、彼等のおかれているこの時代的危険を、危険として自覚していないように見えることである。
『近代文学』のグループの人々と、それをとりまく一部のインテリゲンチャ
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