たということでは或は今日と同様だったかもしれないし、たぶん同様なのだろうが、自分がそのようにして一個の判断、見解をもっていないという事実に対する当人たちの自覚のありよう、感情の在りようは、何処か今日の人々の心とはちがったニュアンスを持っていた。
 自分にはよく解らない、ということに或る自然な文化の価値への敬意をふくまれての謙遜があった。本と云ったっていろいろとある。そのいろいろの一つ一つが鑑別されないから、全集や円本をとる。その気持はそのものとして在るままに感じられていたのだと思う。だから、その自然な自分には分らないという自覚が、次の段階では判ると思えたものに率直にとりつかせる動機となって、直接間接に日本の文化や文学の新しい潮にかかわりあってゆく力の発露となったのであったと思う。

 百円札をもって、これだけ本を下さい、という職工さんの話は、その頃にはなかったような現代の性格を示している。金銭というものの一つの側から云えば、いかにも値うちの小さいものとなりつつある感覚が表現されているといえるし、他面には、逆にきょう日この札一枚あればともかく何でも買える、その何でもの一つとして本も買える
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