今日の読者の性格
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)出版|書肆《しょし》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四〇年五月〕
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          一

 今から二十何年か前、第一次ヨーロッパ大戦が終る前後の日本では、足袋に黄金のこはぜをつけた人もあるというような話があった。そして、ジャーナリズムもこの時代に一つの経済的な飛躍をとげ、菊池寛、久米正雄というような作家たちを通俗作家として出発させ、円本が売れた。一つの画期をなした時代であったが、読者というものはあの頃、どんな角度で現れていたのだろう。
 大戦前後、先ず高まった一般の購買力のあらわれの一面として自身を表現した読者たちは、あの時代にはやがてそのような景気のいい購買力を失っても猶続く自分たちの社会成員としての力を別様に表現して、日本の文学に新しい息ぶきをもたらす文学上の動きとかかわり合っていたと思う。
 この頃は、黄金のこはぜというような単純素朴な、云わば庶民的成金の夢物語は人々の耳に入らないけれども、本が大変売れるということにつれていろんな話を又聞きする。たとえば、本屋へ電話がかかって、四十円ほど本を見つくろって届けて下さいと云った家があるとか、新宿の紀伊国屋かどこかへ若い職工さんが入って来て、百円札出してこれだけ本をくれと云ったとか、そんな話がよく耳に入る。

 頻々とそういうことがおこっているという訳でもないのだろう。おそらく現実には幾つかあったそんなことがぐるぐるまわって変形した話になって殖えたように拡まっているのであろうとも思うが、それにしても、百円札をもって来た若い職工さんの話などは今日の時代を語ってなかなか心に残る話である。
 昔円本が売れた時代の一般の心理に立ちいってふれてみれば、あの頃だって、さてこれで一通り箪笥、長火鉢も恰好がついたから本でも買っておくか、という気持で、そんなら円本でもとろうかと、そして買った人は随分多かったのだろうと思う。どんな文学書がいいのか判らないが、あれならともかく一通り揃っているらしいからよかろう、そういう程度に判断のよりどころが置かれてもいたのだと思う。
 自分独自の判断や見解がはっきりきまっていなかったということでは或は今日と同様だったかもしれないし、たぶん同様なのだろうが、自分がそのようにして一個の判断、見解をもっていないという事実に対する当人たちの自覚のありよう、感情の在りようは、何処か今日の人々の心とはちがったニュアンスを持っていた。
 自分にはよく解らない、ということに或る自然な文化の価値への敬意をふくまれての謙遜があった。本と云ったっていろいろとある。そのいろいろの一つ一つが鑑別されないから、全集や円本をとる。その気持はそのものとして在るままに感じられていたのだと思う。だから、その自然な自分には分らないという自覚が、次の段階では判ると思えたものに率直にとりつかせる動機となって、直接間接に日本の文化や文学の新しい潮にかかわりあってゆく力の発露となったのであったと思う。

 百円札をもって、これだけ本を下さい、という職工さんの話は、その頃にはなかったような現代の性格を示している。金銭というものの一つの側から云えば、いかにも値うちの小さいものとなりつつある感覚が表現されているといえるし、他面には、逆にきょう日この札一枚あればともかく何でも買える、その何でもの一つとして本も買えるという気持も、むき出しに出ている。本も買える。しかし、どんな本を買っていいのか自分には判らないということについて、心の中で立ち止っている姿はない。判らないことの上に居直っているようなところがある。
 判ることと判っていないこととの間に、どれ程の意味があるか、そんな感覚さえ失われているようなのは、今日の読者のどういう特質なのだろうか。

          二

 女学生などの間では、昨今、ごひいきの作家の名はさんをつけてよんで、格別そうでないのは呼びすてにするという風も生じている話をきいた。
 作家を公人として見て、姓名だけをよんで来た読者の習慣とそれとは感情において決して一つのものでないことは明らかである。
 デパートの書籍売場などで、反物を相談するように、これがよく出ます、と云われる本を買ってゆく奥さん風のひとも多いそうだ。それらの女学生にしろ奥さんにしろ、いずれも本は読んでいるのである。もとよりずっとどっさり買って、そして読んではいるのである。今日の読者にはこういう層も極めて多くなっている。
 興味のあることは、こういう種類の読者の層と文学がすきでずっといろいろの文学書も読んで来
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