たというような一部の読者とが、いつの間にやら購買力としてひき出される社会現象のなかで混淆してしまって、これまでの判断や好みをぼんやりさせられてしまっていることである。
 こういう読者層はさすがに今日自分たちの判断が曇らされぼんやりさせられて来ていることは感じて、書評にたよったり、出版|書肆《しょし》の信用と目されるものにたよったり、著書の定評的評判にたよったりして本を読んでゆく。それにしろ、根本に於て、何となく自分の鑑別にたより切れないものを感じて常識、通念に従っていることでは、やはりつよく時代の空気にまといつかれているのである。
 十日ばかり前、この文芸欄で尾崎士郎氏が「三十代の作家たち」の今日の在りようについて面白い観察を書いていられた。その中でも、読者のことがとりあげられていた。三十代の作家の流行性との連関で、アインシュタインの「相対性原理」が科学からおよそ遠い恋愛の秘術か何かを明かにした本だと誤認した読者たちが、その誤認にもかかわらずどしどし買って恐ろしい流行の現象をつくりあげた事実を回顧し、作家として三十代の流行作家が本質はそのようなものである、自身の流行にひかれて今日文学からさまよい出て行ってしまっていることが語られていた。
 尾崎氏は作家の側から読者というものの云わば無判断の猛威のようなものをも見ていられたと思うが、今日の読者の心理の諸々相に入って眺めると、読者と作家とのいきさつは、作家たちが現実に作用してゆく態度の面からも引き出されるものとして、その面に随分どっさり問題があると思える。

 やはり今日の読者の性格の一つの特徴を語る例として、この間こんな経験をした。数日後には専攻しているフランス文学研究のために渡仏しようとしている或る若い女のひとにあったら、その友達に大変私の書くものを好いて皆よんでいるというひとがあるという話になった。そう云われて嬉しくないものはないと思う。すると、それにつづけて「そのひとは、偶然あなたと同じお名前なんですの。だもんですから、よくひとに、こないだの、実は私がちょいといたずらしてみたのよ、なんて云ってよろこんでおりますわ。ホホホホホ」と何のこだわるところなく紅の色艶やかな唇をうちひらいて微笑まれて私は言葉をつぐことが出来なかった。

 現代の教養を体にいっぱいにしたその若いひとは、勿論自分が一種のコンプリメントとして云った言葉でそんなに強烈なショックを感じる作家が今日に在ろうとは思いもしていなかったのである。おはぎでも拵えるように、一寸いたずらしてと表現する娘さんへよりも、私としてはデカルトにさかのぼって近代フランス文学を研究すると云っているその語りての、今日現実のものとしている文学への感覚からショックをうけた。
 今日の日本では所謂《いわゆる》知的な読者でさえ、作品と作家の生きかたというものの間にある必然について全く感覚を喪《うしな》っている。これは、どういうことなのだろう。

          三

 この二三年らい日本のあらゆる事情が激変しているが、特に昨今は物価の乱調子な気ぜわしない上り下りや様々の必需品の不揃い不安定な状態も、切実に生活感情のうちにそのかげをうつしているのだと思う。乾物屋が店の玉子の値段がきに四十とだけ書き据えて、あとの何銭というところに紙をはりつけ次の変化にそなえている刻々の心理は、市民生活のあらゆる部門に亙って存在している。来年中等学校へ入る子供たちはどんな試験をうけることになるのだろうかと思っている昨今の皆の感情も、予測のつかなさと不安定の感とその現象に対する一市民としての無力感とに於て、明らかな時代の感情の色調を帯びている。
 あらゆるものが強い旋回の裡に動きつつあるのがこの日々なのだが、一般は果してそのように自分たちを旋回させている現実の理由や方向や意味を客観的なひろがりの中でどこまで掴んでいるであろう。現実のそれぞれの局面に付せられている名称や説明は、それとして現実の実際の解明と等しいものではないことが生活感情としては何となし直感されている。だがその現実の二重焼つけのような映像に対して、どんな態度かと云えば極めて心理的な麻痺の状態におかれているところがあると思う。

 生活感情の不安定さをつきつめず、おどろきを失い、その日暮しになって、その不安定さから現象としてはあらゆる興行物や飲食店の満員、往来の夥しい人出となって動いている。本がどんどん売れ次から次と読まれてゆくことのうちにやはりこの心理がある。現実の動きを何かの意味で支配する生活の感情から本がよまれようとするよりも、現実の力に背中をドンドン押されて止まることの出来ない足を前進させながら、視線は次々飾窓をも見ている、あの雑踏の中の神経が今日の読者の神経となっていると思える。
 読者一般をそ
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