さんたちの若い肉体が、求める律動はどういうものだろうか。思う存分に手も伸ばし肢も背ものばし、外気と日光と爽やかな風の流れの欲しいのが自然だろうと思う。勝手に体を屈伸させ、さぞ跳ねたりもしたいだろう。肉体の健やかな自然の要求はそこに在る筈である。
 仕舞は、整えられ美とされている線であるにしろ、そうやって既に制約されつめた動作を、又別の制約で鋳つける。きっちりときまりに従って、爪先を一分刻みに移してゆくような緊張を求められている。それも、或る種の娘さんの性格や感情には一つの快感であるのかもしれないけれども、そこには極めて微妙な女性の被虐的美感への傾倒も感じられなくはない。能の、動きの節約そのものの性質のなかには、明らかに日本の中世の社会生活からもたらされた被虐性、情感の表現を内へ追い込む性格が作用していて、しかも、ぎりぎりまで剪りこまれた外面へのあらわれの裡に、精神と情緒のほとばしる極限を表現しようとする芸術の手法である。自由な人間性の流露とは正に反対の手法である。
 今日働く婦人として生活している若い女性たちの実感が、もしそのような芸術の手法にぴったりとするものであるとするならば、私たちはそこに深刻な問題を感じなければならないと思う。今日の日本の二十歳前後の女性たちが、その胸に謡曲の世界の女性たち、四百年も昔の女性たちが、歎いたような悲歎、怨じたような恨、怨霊となってその思いを語らずにいられないほど生きている間には忍んでいた苦悩などを蔵して生きていてよいものだろうか。
 そこまで考えるわけではなく、ただ品のよい稽古事というのであれば、やはりそこに私たちの生ける文化への感情として考えさせられる点が在る。何故なら、それらの若い娘さんたちは、働く健気な婦人たちだのに、まだその働きの性質が自分の肉体に強いている無理を知らず、自分の生活の生理の要求に耳を傾けるだけの生活上の能力をもっていないという事実がそこに現れているのであるから。
 イギリスの皮肉屋の爺さんであるバーナード・ショウだの、現代物理学の神であるアインシュタインだのが日本の能楽の価値を理解したのは、文化への共感として当然であるけれども、そして、外務省が出版する雑誌やパンフレットに能の美を語る理由もわかるが、そのことと百貨店の娘さんが仕舞をやることとはおのずから別なのである。私たちが生活に即して文化の健全さを云うな
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