的に明晰な判断を持たなければなるまいと思う。音楽が好きとか分るとかいうことだけが私たちの文化の内容ではなくして、今日ではもう生活と音楽との相互的な生理がわかるとこまで育って来る必要が示されているのである。
女店員たちの仕舞にしろ、そこには様々の興味ある問題があると思われる。謡曲が、文学として仏教の影響を深くもっていることや、能の発達が封建の大名のお抱えとしてうけつがれて来たことや、それらは誰も知るとおりである。日本芸術の遺産の中で能は独特な評価をもってみられ、それがわかるのが文化を理解するものの当然の嗜みと考えられている。
それはそうあってさしつかえないのだと思う。でも、女店員がその謡曲による仕舞を稽古するということに果してどこまで働く女性の感情にとって必然があるのだろう。能や仕舞は庶民生活の中から自然にわき出した動作が要約され芸術化されたものではなくて、貴族生活、武士生活の感情と思想とが洗練し集約しつくした動きに象徴されたものである。習ってゆく道すじから云うと、能や仕舞ほど形式への絶対の服従を求める芸は殆ど他にない位と云える。お花でも投げ入れとか、お茶でも野立てとか、その場その時の条件を溌溂とした心に映して、工夫を働かせて人の心も自分の心も慰めるというものもある。仕舞はそういうものではない。その場の思いつきで舞われた仕舞というような例は天下にない。ふさわしい場面で、その場にふさわしい曲が舞われるというのが即興として許される限度で、そのふさわしさの判断にあたってやはり一朝一夕でない伝統の理解がものを云うのである。
百貨店の娘さんたちの朝から夕方店を閉じるまでの忙しさ、遑《いとま》のない客との応接、心を散漫に疲れさせるそれらの条件を健全でない事情と見て、反対の解毒剤として、所謂落着いた古来の仕舞は健全と思われているのであろう。実際に百貨店の娘さんたちの動きを見ていると、陳列台や勘定台の間を終始動いている動きは、劇しくせわしいけれども、動きそのものとして実に小刻みで小さい。若い脚がのびたいだけ伸ばされ、しなやかな背中が向きたいだけ大きく向きかわって闊達に動作しているのではなくて、台だの、持場だの、狭苦しい区画の間で気の毒なほど青春の肉体の動きを制約されている。足と手とを神経とともに細かくつかって、それで飽き飽きするほどである。
そういう体のつかいかたをしている娘
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