いい塩梅に、どうにかやれそうだけれど」
黙って微笑んでいるとき子の眼の中に、訪問客の意外さばかりでないぼんやりしたおどろきの色がひろがった。新宿の人ごみの中で良人の坂本と連れ立って歩いている紀子に逢ったのは、僅か半年ほど前のことだが、その頃の紀子と、今日みる紀子とは、どこかひどく違ったところがある。
「お茶もないのよ、御免なさい」
と云う峯子の印象も同じと見えて、
「いかが? お変りなし?」
そう訊く声に、何かの変りを予想している響がこもった。
「ああ、いつか夕方、新宿でお会いしたでしょう。あの四五日後、坂本、急に新潟へ行ったのよ」
坂本はある政治雑誌につとめていた筈であった。
「御主張?」
「勤めがかわったんです。今度は何だか伯父のひっぱりで、軍需会社の社長秘書なんですって」
坂本には、そういう風に時勢への目はしが利くらしいところがあった。
「じゃあなたあのアパートに一人で淋しいのね」
「引越しているのよ、実家《さと》の方へ」
もう仕事のつづきにかかっているとき子の敏捷な指先の動きに、ぼんやり視線を休めながら紀子は高い靴の踵を床の上で、グリリグリリとうごかしている。
その
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