れなくなっていたし食物のことも変に神経質になっていたからそう申しました。御主人は二十二日に出張し、O子は昨日茨城の実家へ行き一週間は、わたし一人となりました。〔中略〕
ひとりきりは月当番ですし何かのとき危険ですからペンさんが又ひとりもの同様な生活なので用の合間に来るということになり、昨日は二人とも喜んで一緒に過し、田舎行準備の本の小包を十三ヶ発送し、ああなんて御ハンなんだろう! と夕食もすませました。一服してさて入浴と思っていたら、なかの口に誰か来て、それは目白の先生でした。六時頃来られる筈だったのに、〔中略〕電話で伺いを立ててから来ようとしたら池袋のぐるりに公衆がなくて歩き歩き千川の避難先のうち迄帰ってしまって出て来たのだそうです。声を揃えて笑いました。〔中略〕其でもペンさんは三、四年ぶりでこの先生に会ったのだしあれこれ話しているうちに省線が間に合わなくなり、こういう顔ぶれは珍しいというわけで泊ることに一決し、客間に用意をしたわたし達は二階へひき上げようとしていたらブーがはじまりました。
この先生はこれ迄二度ひどいときに来合わせて大いに助けて貰ったので、さて又今夜は小さくあるまいと冗談云ったらあの調子で、団子坂と肴町の間のやけのこり区域が又苅りとられました。幸うちの極近くへは落ちず。しかしシャーを三度ききました。二度目のシャーが終ったら、男が一人スタスタ入って来て御苦労さまと先生に挨拶しています。誰かと思ったら菅谷さんの父親でした。当直で田端駅に泊っていました。「奴等[#「奴等」に傍点]」が(そういうの)田舎へ行って私一人だから心配して、段々こっちなので駈けつけてくれたの。このひとはこういうこころもちの男です。〔中略〕「先生がいてよかった。おくさん一人かと思ったんで」と汗ふいていました。大変うれしゅうございました。
六時になって朝飯炊いてみんなにたべさせ、出かけるものは出てしまい、わたしとペンと其から一寸眠りました。久しぶりだったせいでひどく疲れました。午後は眠りたいけれ共夜目がさめると困るので床につかず。〔中略〕台所の手入れをし、それからこれを書きはじめました。ボーとなっていても台所は出来るという発見をして、台所やるようになったのだからわたしも練達したものです。人造石の流し、斜に光のさす窓でものを洗っていると、ああ江場土の井戸端が恋しいと思われました。あの空気、あの青天井、水の燦くしぶきのこころもちよさ。雨の日は大困却だったのですが、それは思い出さず。くたびれて猶あの美味な空気を恋いわたります。
江場土での暮しをこの間申しあげましたが、あの間にね、ハアディーの「緑の樹蔭」という小説をよみました。無名時代に書いたものでハアディーが半分はまだ建築家だった頃、しんから時間をおしまず村の聖歌隊の老若の男女の生活を描いたものでした。江場土での生活には時間の制限がなかったから、この時間をおしまず入念にかかれた作品の味が実にぴったりして、大作家の力量がまだ有名と、専門化によってちっともわる光りしない時代のよさ、ふっくりさ、人生への控え目な凝視というようなものを実に快く理解いたしました。それにつれてね、十五年頃あなたが屡※[#二の字点、1−2−22]わたしの仕事がジャーナリズムに近すぎる、ということを警告して下さったほんとの工合(何故なら其は言葉の意味ではないのですもの、意味という点では一応は分っているのですから)が、ああ此処、こういう違い。とわかりました。何年越しに分って、余りゆっくりしたお礼ですみませんが、あなたの生活にてらしてみると、あの頃わたしに分るようで分っていなかったジャーナリスティックなわる光りになりかねない艷、空気がわたしにくっついていたのであったと、明瞭に分りました。それは現在のわたしの生活は、そういう鉛くさい、せっかちな輪転機の動きから絶縁されて居り、それでそこから解放されているからです。
江場土での収穫の一つとして、これは小さくない獲ものと思います。
よく、作家自身の主題とその展開の独自なテムポとおっしゃったわね。それは、普通に分るより以上のことね。丁度独自な外交術[#「独自な外交術」に傍点]をもつということは、チャーチルには決して本当に分らないように、一人の作家が独自なテーマを独自に展開させるということは、なみなみでは私たち程度のものには会得されないのだと思います。自分に教える多くのものをもっているような生活に身を挺し得るか得ないか、それ丈の馬鹿正直さがあるかないかが第一着の問題であるし。(このすこし手前まで書いたら開成山からおけさ婆さんの婿が来ました。)
二十六日、きのう一日そのマサカズの出入りや注文(国の、よ)で大ごたつきをして、前晩空襲だった疲れがぬけきらなかったら、昨夜又候。昨夜はわたし一人にペンぎり。しかし二人きりで気が揃っているので割合楽でしたが、昨夜は壕に土をかけて小学校の前の疎開地へ出かけました。バケツ一つずつに水を入れたのもってフトンもって。あとは何一つもたず。今か今かと見ているうちに東方の烈風が起って来て火はくいとまり、うちのあたりは黒いままのこり、二時半ごろ再び白いつるバラの咲いている門の中へ戻りました。三月四日にバク弾のおちた前通りの家が三四軒焼け、肴町の通りから団子坂の手前左へ折れて細い道にかかった、あの右側がやけ、(団子坂の手前のやけのこりだった小部分)うちの裏は二側あっちまで、やけました。一時前に停電になってしまいラジオも電燈も水道もなしよ。こうして確実にやけのこりの部分を掃かれて行くのを見ると、もうもう居るべき時でないと思います。
わたしの田舎ぐらしの用意として、財務整理(!)のため来月初旬まではどうしても東京にいなくてはなりませんが、それ迄ここ数日大活動をして、ペンをつれて一応どこか山形辺の温泉に一先ず行き、そこで一ヵ月もいるうちに、きまればそこへ行くということにいたしましょう。温泉というのはね、マサカズの話で国の生活があの土地の生産者に寄食的にだけあって公共奉仕をしないので、不人気なのよ。「一人よけいに人をよびよせるのは、ハア其だけ自分の食い量が減るこんだから考えなさるがいいと云っているんです」作物を守っている人のこころもちはそうでしょう。わたしはそういう口にくるしい餌では生き難いし、わるい亭主をもったのと似ていて、中條さんと云えば旦那とわたしは別ですという生活はなりたちませんものね。こんなひどい東京にいて、私がこうしていられるのは、わたしの与える無形なよろこびやたよりに対してわたしに便利なように便利なようにと考えて、ナッパの一かたまりもくれる人が多いからよ。わたしたちにはわたしたちの存在の方法がおのずからございます。
それにわたしはこの頃右の腕が過労のため(人足仕事の)痛くて髪をとかすのもやっとです。こうしてものを書くこまかい運動は割にましですが。炎症をおこすのだって。ロイマというリョーマチのモトの仕業の由。ところが現代ではそのロイマ奴の正体が不明なのよ。おイシャにきいたら、サンショの皮を入れた風呂に入ってみなさいというの。サンショの皮をペンがさがしたら、見えていた道ばたの山椒の樹が若葉がくれしてしまって、駄目なの。その腕でゆうべはシャベルもって土かけしたから、きょうの工合は物凄うございます。〔中略〕
千葉で休んで来た力で移動の仕事やってしまって、なるたけ早くここを動きます。東京にいなくてはならないということと、ここにいるということとは別ですから。今一寸何をするにも只金を払う丈ではとてもだけれども、マサカズが来た結果すこし便宜な条件が出来ましたから、それを活用して動きます。ペンも岩手の水沢というところに母を疎開させ、自分はどこかその辺で職業をもつことにします。方向が同じで、一人で困るからいろんなこと一緒にして、わたしは一人では困る道伴れになって貰うというわけです。(五反田に近い上大崎に知った家がありましたが、やけたらしいことよ。猿町がないそうですから。)
焼あとが多いことは大したことね。昨夜そう思いました。しかし、あとで焼ければやけるほど万事が骨折りです。いろんなものが無くなるし(乗物など)。来月そちらでお目にかかり、次の月はどうなるでしょうねえ。
七月には、ね。いつまでもおいてきぼりにしてしまったらこまると思います。移動して出たら、もう東京へは戻れないし。でもまア、万一そういうときには又その時の策もあるかもしれません。せめて夜具フトンを、と頭を大ひねりです。〔中略〕
チリヨケ目がねで大分注意いたしましたがきょうは目がすこしパシパシ。おや、今とんでいるのは29[#「29」は縦中横]の音よ。ラジオがないとこういうことになるのね。ではどうかお大切に。今は省線が不通です。
六月十六日夕 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕
一九四五年六月十六日
きょうは開成山からの手紙です。これは、いつ着くでしょうね、勿論明日わたしがここを立ってひどく混む汽車にもまれて東京へついて、それからそちらへシャツを届けに行ってそれでもまだ着かないことでしょう。もしかしたらこの次引上げの意味でこっちへ来る時分にやっと読んで頂けるのかもしれないと思います。
こちらには、十四日に来たのよ。十日に来る予定でいたところ、うちの菅谷には切符なんか買え[#「切符なんか買え」に傍点]ない由で駄目。閉口してあきらめかけていたとき一馬という咲の兄が来て自分の切符をくれる話となりました。全く望外のことで大よろこびしたけれ共十二日に来るのが来なくて、やっと十三日の午後もって来てくれました。そこで急に支度して、ペンに久喜まで送られて来ました。国の迎えが主眼で。上野では(一時二十五分)福島行きでどうやら座席をとりましたが赤羽からひどいこみかたで久喜でペンがおりるときは窓から出ました。窓からというとこわいけれども案外なのね。大いに意を強うして郡山でも其をやらなければなるまいと思っていたところ、ともかく体は普通に降りました。大風呂敷の背負袋、国府津へなんか持って行った茶色のスーツケース(覚えていらっしゃる?)それにベン当なんか入れた袋。モンペ、くつばき。凄いでしょう。背負袋からは雨傘が突き立って居ります。
引上げ準備のため忙殺され疲れきっていて、汽車にのったらゆっくりしたかったのに、何しろ座席の(向い合う)間に腰かけているものがあるほどの上に、あいにく向いにこしかけた男女とも罹災して大いに気合がかかりっぱなしの人物なので到頭着くまで何となししず心なし。段々夕暮れになって山際の西日が美しく日光連山から福島の嶽《ダケ》の山並が見えて来て、短い満載列車はたった一つの灯を車室につけたまま暗く一生懸命にせっせ、せっせと煙を吐いて進みます。郡山につく一つ二つ前の汽車の情景はドーミエ風でした。
何しろ電報は都内で丸一日がかりですからいきなり来た次第です。郡山駅がやられたというから国民車というものもないという覚悟で靴をはいて来たわけでした。駅に下りたら攻撃を受けたとは云ってもちゃんと屋根もあれば水のみ所の鏡もあり、駅全体の空気は東京で忘れられたおだやかさです。一時預りもやっていたのよ。それはほんとうに平常の生活というものを思い出させます。人の住んでいる街道、家並のある道、それは何と賑やかなものでしょう。たのしいものでしょう。月が五日で丁度八時すぎの田舎道に照して居ります。ベン当袋だけ背負ってゆっくりと歩き出し一時間すこし歩きました。殆ど人通りのない街道が畑と田との間にさしかかり、やがて子供時代から見馴れた山の神の松林。そこのあたりに大きい池が三つあって桜の繁った葉が黒々と厚くつらなっている遙か彼方に山が見えます。月は明るく蛙が鳴いているの。そこを、わたしは一人で歩きつつ、東京をどんなこころもちで思いやったことでしょう。いとしきものをのこし来にけり。焼原の真暗ななかにすこしずつ点々と灯かげが見えるような東京。いとしいものはその灯の小さい影の下に生活をしている。切ないまざまざとした
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