は勿体ないわ、でもねえ、惜しいわ。本当に惜しいわ。悧巧さなんて、其丈では何と頼りないものでしょう。
 七月二十九日
 太郎の勉強がやっとすんで、この机は又わたし一人になりました。今は「柳の衣桁」にとりかかって居ります。アナトール・フランスの鋭い洞察は、いつも手ぎれいな機智めいた表現をとるために、その意義の重さをそのままに示さないと思ったりし乍ら、しかし、眼は折々南側にくっきり浮び出て来た山並を眺め、心の底では物思いにしずんで居ります。きのう書いた手紙はまだ机の上にありますが、この封筒がそちらに届くのはいつかしら、と先ず思います。わたしたちの間の玄関や通路は又昨夜いたずら鼠にちらかされました。今朝はわたしは経験者ですから、音響で、そら落すよと叱呼したのに国ポケント突立っていて煽りでヨタついたのよ。
 あなたの御旅行は困難なうちにもいい折に当りました。わたしが其を知ったのは二十六七日頃で十日足らずのうちに大体まとめてここまでは来たのに、夕立雲にかち合ってしまって。来月五日頃に切符を入手する予定で居ります。ああ、神よ、その海渡さえ給えよ。
 きょうは夏らしい日光になって、芝庭や松が芳しい匂い
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